親を許すとはどういうことなのだろう

 

 

 先日、知人に話の流れで「でも、わたしママのことそんなに嫌いじゃないし……」と言ったところ、「愛されてないのに?」とド直球火の玉ストレートが飛んできて、それがブッ刺さったまま抜けなくなっている。その通りすぎて何も言い返せなかった。

 

 母がわたしを愛していたのか問題については今でも頭を抱えることがある。

 

 幼少期から今に至るまで、母がわたしに愛のようなものを向けてくれるとき、母が見ているわたしは必ず”優秀”で”立派で”自慢”の娘なのだ。

 母にはたまに会う(ようにしている)のだが、そのたびに必ずわたしの幼少期の武勇伝を話して褒めちぎる。「あんたは昔から優秀やってなあ、」という枕詞とともに始まる、わたし自身は記憶が曖昧なエピソードの数々。わたしが英検二級を中2で取った話は、10年以上擦られつづけている。

 

 優秀な成績を取ったり、試験に合格したりなど、わたしが勉学の方面で何かを達成したときだけは優しい母だった。そういうときだけは、新しい服や漫画を買ってくれたり、おいしいものを食べに連れて行ってくれた。

 それ以外のときは、殴られたり、罵倒されたり、部屋に閉じ込められたりして過ごしていた。

 

 

 母が愛のようなものを向けている対象としてのわたしは、わたしという人間そのものではない。わたしの産みの親として、娘が優秀であることを通して、母は自分自身を評価しなおしているのだ。

 わたしが立派になればなるほど、母は自分を評価する軸を増やす。わたしを愛しているのではなく、わたし(という娘を立派に育てた自分自身)を愛しているのだ。

 わたしという存在は、あくまでも母が自分に自信を持つための実験材料でしかない。そして、その実験は成功のみが許されており、失敗しようものなら身の安全を奪われるのだった。

 

 

 そんな母も今年で56歳になる。もう人生の半分は過ぎていて、どちらかというと死のほうが近い。

 実家を出てからは、こちらが距離感を選ぶことができるので、ずいぶん穏やかな関係を維持している。小学生の頃は、大人になったら絶対にこいつを殺してやると思っていたけれど、いざ大人になってみると、そんな気は起きなくなった。

 もう許そう、と思ってしまう。死ぬまで許せないのは嫌だな、と思う。でも、許すってなんだろう、と思う。

 

 親を許すとはどういうことなのだろう。

 

 これまで受けてきた最悪な仕打ちは、なかったことにはできない。典型的なアダルトチルドレン愛着障害である自分の気質はごまかせない。誰がどう見ても機能不全家庭上がりの性格をしている。

 でも、いまさら怒りや憎しみの矛先を親に向けようとも思わない。怒ったり憎んだりするのは疲れる。特に、親に対するそれは数えはじめたらキリがない。振り返ればどこまでも遡れるし、探せばいくらでも新しいものが見つかる。

 怒りや憎しみはなくなったけれど、ときどき「ママに愛されたかったなあ」と泣いてしまうのだ。親からの愛情を諦めきれないのは、心の底では許せていないからなんじゃないかと思う。

 

 

 本当は、衝動のままに怒ったり憎んだりして、それを直接ぶつけて「ごめんね」と言われたい。わたしの心の中で眠ったままの幼いわたしを思い切り抱きしめてほしい。子供に話しかけるようなやさしい声で「あなたが誰よりも大事だよ」と言ってほしい。

 わたしが母を嫌いになれないのは、母にわたしを嫌いになってほしくないから、そしてあわよくば愛してほしいからだ。

 

 きっと母はわたしを愛してくれることはないだろうなと思う。母自身はわたしを愛しているつもりなのだ。娘を通して自分を愛することと、娘を他人として愛することの区別がついていない。26年間そうだったのだから、きっとこの先もそうだろう。

 そしてわたしは、また母に愛されなかった夢を見て、泣きながら目覚めるのだろう。