わたしでなくてもいい誰かになってしまいたくない

 

 

 母と食事に行った。会うのは4ヶ月ぶりだった。

 わたしの記憶の中にいるヒステリックで会話のできない母はもうそこにいなくて、ただただ穏やかなよく笑うおばさんという感じだった。

 記憶の母と現実の母が違うことにはもうずいぶん慣れた。ボコボコにされていた頃の自分の悲しみの置き場に困ることも減った。目の前の母を愛することに徹していられている。

 自分の心の底の部分がどんどん穏やかになっているのを感じる。いい傾向だと思う。怒るのは疲れるから。なるべく怒らないで生きていたい。

 

 しかし、なるべく怒りたくはないけれど、怒りという感情が薄くなることを残念に思う自分もいる。

 怒りという感情は間違いなく自分らしさを構成するものだった。怒るたびに敵は増えるし、他人に向けた怒りの刃がふとした瞬間に自分に向いて苦しくなることも多々あったけれど、理不尽なことに理不尽だと言って、自ら自身の生きやすさを手に入れてかかる自分のことも好きだった。

 丸くなったと言われるのは(そこに悪意がなくても)ちょっと悔しい。なんだか上流から下流に行くにしたがってまんまるとした形になっていく石のようで、あれだけ威張っていたのに自然の原理には逆らえなかったのかと、結局自分も型にはまった生き方をしてしまうのだな、と思う。

 

 フォロワーやウォッチャーが増えたことによって、自分の考えていることが人の目に晒される機会が多くなって、価値観がゆるやかに変わっていくことは、喜ばしくもあるけれど悲しくもある。

 このままどんどん当たり障りのないことしか言えなくなっていくのかな、と思うと怖い。自分の芯を見失いそうになる。世界に対して都合のいいことだけを言う、わたしでなくてもいい誰かになってしまいたくない。

 

 

 

 マシュマロに恋愛相談がよく届くことについて、縁を切ったかつての友人に「ろくでもない恋愛ばっかりしてるくせによく偉そうなことを言えるな」と陰で揶揄されていたことがずっと忘れられない。本当にその通りだと思う(ただしそれは他人がとやかく言うべきことではないので許してはいない)。

 

 これはさっき気づいたのだけれど、わたしはマシュマロに届く質問について他人事でありすぎた。当事者性に欠けていた。他人事だから好き勝手言えるのだ。

 相談者は第三者の客観的な視点が欲しくてマシュマロを送ってくるのだろうけれど、もっと寄り添って考えることが必要なのではないかと思った。

 もちろんそれで自分が何か得するわけではない。金銭も発生しないし、インターネットで得られる信用なんてくだらない承認欲求ぐらいしか満たしてくれないし、どこまで親身になるかというのは線引きが難しい。気持ちを入れすぎるとわたしのほうが破滅してしまう。

 けれど、それにしても返信が作業的になっていたことは事実だ。今のわたしは、同じような意味の内容をことばを変えて繰り返しているだけである。もっとひとつひとつのマシュマロに真摯に向き合って、自分の編んだことばに責任を負えるようになりたいと思う。

 

 かつての友人が言ったように、本当に他人の相談に乗っている場合ではないぐらいにろくでもない恋愛ばかりしているのだけれど、わたしが悩んでいる様子の一部始終を見ている友人は、「まうちゃんが一番幸せになれる決断なら他の人間がどうなってもいい」と言ってくれた。こんなにもやさしいことばをかけてくれる友達がいるだけで、わたしはもうすでに幸せ者だと思う。

 しかし強欲なので、恋愛の面でも幸せになりたいと思ってしまうのだ。わたしは本当に幸せになれるのだろうか。そもそも幸せって何なんだろう。いっときは幸せを感じていても、時間が経つとそれに慣れてしまって、幸せでないところを探すようになってしまう自分が本当に嫌だ。

 幸せになるって難しい。

 

 

 

 最近はそんな感じのことを日々考えている。社会人になると、考えるトピックは自ら探しに行かないと見つからない。同じような毎日で、考えることをサボりそうになる。

 

 今日、母と食べたフルーツサンドはとてもおいしかった。阪急三番街の地下2階にあるフルーツパーラー。順番は逆だろうと思いつつも、そのあとフードホールで牛タン定食を食べた。嫌煙家の母との解散後、大阪駅前4ビルで喫茶店を新規開拓した。

 なんだかんだ充実はしていた気がするけれど、どこかまだ虚しさも残っている。とはいえ特にやりたいこともない。お金も行くあてもないので何もできない。起きていても腹が減るだけなので、寝るしかないなあ。

 おやすみなさい。