わざわざ生きる意味を探して鬱になるのはバカ

 

 

 実家に帰ると鬱になる。今回の帰省ももれなくそうだった。

 帰らなければいいだけの話ではあるが、帰らなかった年に母から「親不孝もの」と言われた記憶があるので、帰るほかはなかった。

 

 

 帰った日の晩にはすき焼きを振る舞われた。

 母が「ちょっと奮発しちゃって〜」と言って、父が黒毛和牛を焼いてくれた。

 母はわたしの職業を知らない(父は知っている)。正直なところ、職業柄これよりもっと”いい肉”をたくさん食べてきた。甘い脂の味にはやはり覚えがある。

 悲しいことに、親が珍しく奮発してくれたから格別に美味しいということはなかった。黒毛和牛は黒毛和牛のままである。味はさして変わらない。

 きっとわたしを喜ばせようとしてくれたのだろうな、と思いながら「ありがとう」と喜んだけれど、こんな喜び方をしてしまう自分が悔しくて泣きそうだった。

 

 

 両親にどういう心持ちで接したらいいのかがいつもわからない。

 帰省や食事のたびに両親はやさしくしてくれる。いつも会うことを楽しみにしてくれていて、愛してくれているのだろうなと思う。

 でも、昔の記憶と辻褄が合わなくて苦しいのも事実だ。高圧的で暴力的だった母と、無関心だった父によってねじ曲げられてしまった卑屈な人格に、どう説明をつければよいのか?

 わたしだけ時間が止まっていて、そこに置き去りにされている気がする。

 

 

 春からの職業が決まっていないことについて、わたしの拗れたメンタルヘルスを知らない母は「ちょっと変わった自由人」にありがちな進路だと捉えているふしがあり(いまだに大学院進学を勧めてくる)、逆にそれを知っている父は「精神的に不健康で働けない弱者」の進路だと捉えているふしがある。

 どちらも微妙にずれているが、まあ色々言われるよりはマシなので放っておいている。

 

 なるべくしてこうなったな、と思う。

 これまでの人生のどこを切り取っても、結局こんな感じになる未来が見える。あらゆる欲しいものを犠牲にしてきた人生で、25歳無職メンヘラの異常独身女性になってしまうことは悔しいけれど、仕方ない。

 同期は、就職してバリバリのキャリアウーマンになっていたり、出産して子育てをしていたりする。そんな中で、自分の世話すらもまともにできない公立大卒フリーター(おそらく夜職)になる。

 なんなんだ、この人生は。

 

 

 最近、何も考えずに適当に生きていくことの精神衛生の良さに気づいた。

 それなりに日銭を稼いで、時間とお金をお酒と煙草と恋愛に溶かす。それでも暇なときはYouTubeを観るか、寝ているかの二択。食べたいものを適当に食べる。インターネット上の不愉快なものにお気持ち表明をして、いいねを稼ぐことで承認された気になっておく。

 理想は抱かない。今ここに過ぎていく時間を適当にこなす。

 飛び抜けて楽しいことがない代わりに、飛び抜けて苦しいこともない。

 あんなにもがんばって生きていたのに落ちぶれたな、と思うことはやめる。わざわざ生きる意味を探して鬱になるのはバカ。生きることにいちいち意味なんてあってたまるか。ただ死を待つだけ。

 

 

 ここ6~7年ほど、親の支配下にいた20年間を取り返すかのように、”自分らしい生き方”をがむしゃらに探してきたけれど、なんだかもうどうでもよくなった。

 初めからその程度のものだったのか、はたまた追い求めることに疲れ切ってしまったのかはわからない。もしかしたらその両方かもしれない。

 それでも、何者かになりたくて必死にもがいていた頃よりも、今の方が圧倒的に気持ちが楽だ。不幸を実感するのはつらいけれど、幸せを実感できないことはつらくない。”無”だから。

 

 たぶん、人間は”人生のがんばり”に使えるエネルギーが限られている。20代前半までに95%ほどを使い切ってしまった。残りのウン10年を、5%で生きなければならない。

 使ってしまったエネルギーは多少は回復できても、完全には戻ってこない。

 使いたくて使ったわけじゃないのに、と恨んでもきっと戻らないし、むしろ苦しむことに消費してしまうから、それならばいっそ引き受けて、それなりに生きていったほうがよい。

 

 

 こうやって自分を正当化して適当に歳をとって死んでいくのだろうな。それでいいと思う。

 アホほど課金してくれた親には申し訳ないけど、今のところこれがわたしの答えになっている。あんたの言う通り、親不孝かもしれんわ。すまんね。