完全なるバーチャルキラキラワールドは成立しない

 

 ついにデカ愛の𝑰𝑵𝑻𝑬𝑹𝑵𝑬𝑻が炎上した!

 

 炎上と言ってもバズり倒してはいない。ただ自称・繊細さん界隈のどちらかとえば文化的な暮らしをしていらっしゃるサブカル気取りな方々のうち某アーティストの熱狂的信者の方々というものすごく狭い界隈から攻撃をいただいたわけだが、憎悪の念のデカさがその辺の炎上とは桁違いだった。

 

 匿名のお気持ち表明がそこそこ届いたのに対して、DM(だいすき・めっせ〜じ♥️)は一通しか来なかった。

 そういう対等に戦う気はないが相手を殴る権利は欲しいという卑怯さにこの信者の層のキショさが詰まっている。

 ネチョネチョベトベトしたその辺のメンヘラとは違いまっせ、みたいな澄ました顔をしているが、実際のところ大して変わらんし、何ならもう見た目でネチョネチョベトベトしてそうなのがダイレクトに伝わってくるその辺のメンヘラの方がよっぽどマシですらある。

 

 

 

 「あなた自身が誰かの不愉快な情報になるようなツイートをしないように心がけることはしないのですか?」「時間が経たないと自分が何をしたか客観的に理解できないようならアカウント消すなりしばらくお休みしたらいいと思う、インターネットの海に一生残る恥が増えるだけなので」「なんでごめんなさいって言えないんですか?」「妄言と言えば、傷つく人がいても許されるのでしょうか」「何か発言するときに自分が加害者になっていないか考える必要があると思います」「いろんなものに悪口言ってるが個人について述べていなければ、気持ち悪いツイートしてもいいんですか?」

 

 これらの他にもいろいろ届いたが、全ておもしろく読ませていただいた。Twitterでお答えすると140字以内(スレッドは3つを超えると省略されるので見づらい)に収めなければならないので、できるだけ感情的な部分は省いて、淡々と個人的見解の要旨だけをお返事として献上した。

 

 インターネットはより一層最悪になったのだなあとひしひしと感じる。

 

 

 スマートフォンの普及以前にインターネットにアクセスしていたメインの層はオタクだ。そこにはオタクたちのオタクたちによるオタクたちのためのインターネットがあった。

 二次創作の個人サイトの注意書きには必ず「閲覧は自己責任です」と書かれていたし、もはやその文章を読まずともオタクたちはコンテンツの閲覧が自己責任であることを弁えていた。解釈違い、生理的に受け付けない、逆カプ、その他さまざまなタイプの個々人の地雷。

 地雷は踏む方が悪かったし、もし地雷を踏んでしまっても地雷の埋め主を責めるのは間違いで、これまでの自衛では不十分だから見直すことで解決しようという暗黙のルールがあった。

 

 それが今となっては、地雷は埋めた方が悪い。踏んでしまったボク・アタシは被害者。(無自覚でも)地雷を埋めるのをやめられないならインターネットをやめろ。

 

 

 インターネット人口において、地雷だらけのインターネットを気をつけて歩いていた経験のある人々の割合が少なくなっているのだろう。彼らがそれらの経験を語り継ぐ暇もなくインターネットは急速に普及した。そして、世界は綺麗で美しく無害であるべきだという公正世界バイアスじみたクソみたいな価値観が広まり、インターネットはバーチャルキラキラワールドへと一転した。

 

 その価値観はもう古い、という旨のコメントがいくつか届いたが、果たしてこれを”古い価値観”として完全に捨て去ってしまってよいのだろうか。

 

 

 そもそも快・不快は個々人に判断の任された価値基準である。誰かの快は誰かの不快だし、誰かの不快は誰かの快だ。

 実際、わたしは例の「某アーティストを好きな女は〜」を快としてツイートしている。だって普通におもしろい。これを快とするか不快とするかは受け手によるし、受け手のうち誰かが不快になることもわかってツイートしている。

 というかデカ愛の𝑰𝑵𝑻𝑬𝑹𝑵𝑬𝑻のほとんどがそうだ。デカ愛の快に共感できる人間だけでデカ愛王国を作りたいし、不快さを察知した人間からどんどん要塞の外に去っていけばいいと思っている。その不快さまでもが快だというマゾヒズムの強者はちゃんと王国に入れてあげるから安心してね。

 

 なぜ自身の不快を振りかざして快のインターネットを他人に求める人間は、その不快さが他人にとっての快のインターネットであることを理解できないのか?

 自身の快を他人に強要するくせに、他人の快を受け入れないというのはいささか自己中心主義ではないか?

 というか、お前のその「快のインターネットをしろ!」というお気持ち表明がオレにとっては不快なインターネットなんだが(笑)オレは不快も含めてインターネットだと認識してるけど、お前は?(笑)

 

 

 だいたい、他人の妄言を真に受ける人間は自他の境界が引けていないのだ。例のツイートで名指ししたのは某アーティストだけだ。それを好きな人間は〜と言っただけで、誰もお前のことですとは言っていない。勝手に「これは自分のことを言っているに違いない」と当てはまりに来て、勝手に傷ついている。

 シャドーボクシングをしている人は、別に通りすがりの誰かにヒットすることを狙って空気を殴ったり蹴ったりしているのではない。巻き込まれたなら、それはシャドーボクシングの手足の届く範囲に近寄ってきた方が悪い。わざわざ自らの意思で近づいてきたくせに「こんなところでシャドーボクシングをするなんて!」と文句を言うのは異常である。

 

 だからこそ自衛が必要なのだ。誰かの快が誰かの不快で、誰かの不快が誰かの快である以上、完全なるバーチャルキラキラワールドは成立しない。

 インターネットを利用するためには、快も不快も受け入れる覚悟をしなければならない。自分の快だけを享受しようなんて都合のいい話はない。不快なものを見たくないのなら、インターネット(とりわけ弱者の鬱憤の掃き溜めになる傾向のあるツイッター)をやめればいい。

 インターネットはやりたい、でも不快なものは見たくない、というのはわがままだ。やるべきことをやってから権利を主張しろ。

 

 

 誰もが気持ち良いインターネットを、なんて無理があるのだ。公正世界の幻想を捨てろ。インターネットなんて初めからクソの掃き溜めなんだよ。好きなクソを選べ、嫌いなクソは黙って捨てろ、という話。クソを置かないでください、なんてクソの掃き溜めに来ておいて言うな。クソを見たくないなら初めからクソの掃き溜めに来るな。

 

 というわけで、デカ愛は名指しした某アーティスト本人の目に触れて彼女を不快にさせたことについては反省していますが、謎に匿名のお気持ち表明をしてきた無数の熱狂的信者たちに対しては一ミリたりとも申し訳なさを感じていないので、𝑳𝑶𝑽𝑬𝑹𝑺たちはデカ愛ちゃんが信念を曲げさせられた⁉️と思わなくていいからね。デカ愛ちゃんは相変わらず𝑳𝑶𝑽𝑬𝑹𝑺にドシドシの𝑳𝑶𝑽𝑬を提供するデカ愛ちゃんです。みんなで最高の𝑰𝑵𝑻𝑬𝑹𝑵𝑬𝑻にデカ愛王国を建てようね。約束だよ🎶

 

 

 

 ちなみに、2019年で更新が止まっているが(下北のバンド界隈でまあなんか金銭的な揉め事とかいろいろあったらしい)、当時よく読んでいた音楽コラムにBASEMENT-TIMESというサイトがある。

 

basement-times.com

 

 基本的には音楽への愛とリスペクトが動機でピースフルに書かれているが、2017年頃なんかはまだリスナーに対する(バンドに対してもあった)ディスり芸がちらほらあって、それも含めて楽しませてもらっていた。当時のインターネットではリスナーディスり芸が通用したのだ。

 当時も筆者のアンチはいたけれど、下北のバンド界隈ではそこそこ顔の広い人で、それなりに音楽の仕事をしている人、というイメージがあった。今の時代にこれをやったら確実に失脚するんだろうな。

 

 ああ、どんどんインターネットが最悪になっていく。

 

 

 

もう人生がどうなってもいい

 

 来たる6/2で25歳になる。20代前半が終わり、四捨五入すると30のアラサーになるので、いわゆる"青春"と呼ばれる時期にはここで区切りがつくことになる。

 

 

 質問箱にリクエストが来たので、「わたしの青春時代」を振り返ろうと思う。

 青春時代にもさまざまな定義があるが、だいたいは中学入学〜大学卒業を指すだろう。わたしは大学の卒業が3年遅れているので、青春時代が約12年あり、人生の半分が青春時代だったということになるが、お察しの通り、素晴らしくも美しい青春時代ではなかった。

 以下、12年間の振り返りとなる。

 

 

 

 中学生時代

 とにかく暗黒時代だった。

 学歴コンプレックスエリート志向の母に乗せられて中学受験、第一・第二志望に落ち、行きたくもなかった私立中高一貫校に進学、そしてそこではいじめを受ける。

 

 わたしのメンヘラが目覚めたのはおそらく中学受験時代、つまり小学5~6年生の頃だ。自傷行為という概念を知らずとも、抜毛癖と皮膚むしり症でてっぺんハゲを作っていた。

 中学生になってリストカットというカルチャーと出会い、授業中にもハサミで手首を切りまくっていた記憶がある。ハサミの鈍い切れ味がどうにも快感だった。

 

 希死念慮が明確になったのもこの頃である。当時からTwitterに裏垢を作っており、家にも学校にも、世界中のどこにも安心できる居場所がないことの苦しみを吐露していた。

 この頃のTwitterは「死にたい」とツイートしても垢BANされることはなかったのに……。

 

 お小遣いも少なく、しかもその少ないお小遣いもADHD特有の忘れ物・失くし物の補填にほとんど消えていくので、容姿を磨く余裕はなかった。誰がどう見ても腐女子とわかる見た目だった。そしてちゃんと腐女子だった。イナズマイレブンのおかげでショタコンに目覚めた。

 家にも学校にも居場所がなく、制カバンの底にひっそり忍ばせたDS Liteで、通学に利用するバスの往復4時間でこっそりプレイするイナズマイレブンに救われていた。日野晃とレベルファイブには今でも感謝している。

 

 中高一貫校だったが、皮肉にも家庭の経済状況に余裕がないことが幸いして、地元の高校を再受験することでいじめから抜け出すことができた。同級生の進学先である高等部よりもよっぽど偏差値の高い高校に合格することで見返してやろうと、地元の公民館の自習スペースで猛勉強した。

 第一志望は受けさせてもらえなかったが、無事に合格した第二志望もまあ高等部よりは偏差値が高かったのでよしとした。

 

 

 

 高校時代

 

 本当は軽音部のある高校に行ってキーボードを弾きたかったのだが、「あんたは中学で私立に行ったんやから高校と大学は国公立や」という、私立中学に押し込んだくせに何故かその責任をわたしに負わせる母の理不尽な要求に応えなければならず、軽音部のない地味な自称進学校に入学した。軽音部がないので、美術部に入ろうと思っていた。

 

 腐女子を卒業して、サブカルクソ女への路線を走り出していたわたしは、三戸なつめに憧れて前髪をオン眉ぱっつんにして、ヘッドホンでインディーズのバンドを聴いていた。それを剣道部の女子の先輩に気に入られ、流れるままに剣道部にマネージャーとして入ることになった。

 

 これが間違いだった。

 

 一緒にマネージャーをすると入部してきた女がもうトンデモ爆弾級にヤバすぎる女で、お腹が空いたという理由で不機嫌になり話しかけても無視してきたり、わたしが積極的に剣道に詳しくなろうとすることに「マネージャーが競技に出しゃばるのは恥ずかしい」という謎理論で足を引っ張ってくるような女だった。

 

 わたしはその女の相手をすることでとにかく精神を磨耗した。常にご機嫌を伺って、先回りして物事を済ませるというのは、母の生み出す機能不全家庭でやってきたことそのものだった。

 情緒のジェットコースターが激しくなり、毎晩Twitterで病み散らかし、一時期落ち着いていた抜毛症が復活した。

 

 

 突然、初めての彼氏ができた。中学の同級生だった。元はオタク友達だったが、スマホXperia初音ミクのコラボの痛いアレだったのが非常に恥ずかしかったことを覚えている。

 自分から好きになった人ではなかったので、1年ほど付き合ったが、わたしがあっさり自分の高校のクラスメートに惚れて別れた。お金のない高校生に他校生との交際は難しすぎた。

 

 

 なんとか部活を引退までやりきり、受験期に突入する。

 部活を引退し、受験勉強しかやることがなくなるとなると、嫌でも自分と向き合う時間が増える。

 わたしの中途半端なエリート街道の人生は母の学歴コンプレックスを満たすためだけにあったことに気づく。暴力やいじめに耐えてきたわたしの18年間は、すべて母のものだった。

 母から逃げるために、浪人して芸大に行くことを決める。学歴レースから降りたかったのだ。

 

 この頃のメンタルヘルスは最悪で、学校に行けなくなっていた。微妙に知り合い程度の他人がわんさかいる空間に行くと被害妄想がついてまわる。

 世間体を気にする母には毎朝家を追い出されるので、逆方面の電車に乗ってJRの大回り乗車をして、琵琶湖を眺めたりして1日を潰していた。アクティブな不登校だった。

 情緒不安定な気質が、立派な躁鬱へと変化した。

 

 そして何も決まっていないことだけが決まったまま高校を卒業した。

 と言っても京都市立芸大には一浪すれば受かる自信があったので、特に不安はなかった。バイトで予備校代をまかなうと宣言し、母からの口出しをすべて無視した。

 

 

 

 浪人時代

 

 わたしの、わたしによる、わたしのための人生が始まる。

 ADHDムーブをやらかしまくりパワハラを受け地元のミスドを退職し、駅のキヨスクで早朝働き、昼は予備校、夜はセンター試験の勉強という日々を過ごした。素晴らしい躁転である。

 

 ミスドパワハラを受けていた頃に初めて精神科を受診した。ADHDをなんとかせねばならんと駆け込み、コンサータを処方されたが、副作用があまりにもひどくトイレから出られなくなったので、無能として生きていくことを受け入れた。

 

 夏前に予備校を変えたところで、メンヘラ恋愛脳が開花する。予備校の同期の男に惚れ込んだ。しかし彼女にはしてもらえず、ラブホ代を負担する都合のいい女になった。モラハラ気質に振り回され、依存してしがみついて、どんどん立場が低くなっていった。リストカットが復活した。

 ある日突然、恋が憎悪に変わり、絶対にこいつよりもデッサンが上手くなって合格してやるというやる気に満ちた。

 

 メキメキと上達し、センター試験でも83%を得点して、見事にわたしだけ合格した。

 芸大受験浪人に猛反対し、ボロカス言ってきた母は「日本で一番歴史のある芸大に一浪で合格するなんてさすがうちの子やわ」とご満悦だった。学費さえ実家が出してくれるのであればもうどうでもよかった。

 

 春休みには当然のように鬱転し、ベッドの上で虚無になっているうちに1ヶ月が過ぎた。ほとんど記憶がない。自室のアトリエ化をしようと計画していたが、ほとんど寝たきりだったので頓挫したことだけは覚えている。

 

 

 

 大学入学〜現在

 

 晴れて京都市立芸大に入学、躁転してファッション同好会を立ち上げる。キラキラ集団を率いる、目立つ新入生だった。

 

 しかし同時に学生の男女比に絶望して、当時まだ現在ほど流行ってはいなかったTinderに登録する。ブスを理由にドタキャンされたり、脳みそオチンポの痛い男からのメッセージをかわしたりしながら、初めて自分から好きになった人と付き合った。

 相手もメンヘラだったので、共依存を1年近くやった。しかしわたしが見事に鬱転したタイミングで見限られて別れた。

 鬱転する前に死ぬほどバイトをしてお金を貯めて実家を出た。というかこの躁転のせいで鬱転したと思う。今度は京都の精神科に通い始めた。双極性障害の診断が降りて、服薬を始めた。

 

 共依存男に振られ、男の傷は男で埋める!と別れた翌日にTinderを再インストールし、とにかくマンコパワーを駆使して心の隙間を埋めた。ここで、今でも付き合いのあるマブい男友達が何人かできた。

 夜職はこのあたりで始めた。インキャでも働けそうな夜職ということでメイドキャバクラを選んだ。メイクやファンションはサブカルクソ女から少し抜け出した。オタク垢抜け選手権の始まりである。

 

 大学は休学した。鬱転してぶち壊した人間関係のまま過ごすことに耐えられそうになかったこと、そもそも工芸という分野が自分に向いていなかったこと、美術科への転科試験まで1年待たなければならないことなどが理由だった。2年の留年が決まった。

 

 休学中にマンコパワーを駆使しているうちに、音楽の趣味が合いすぎる男と付き合うことになった。いろいろなバンドのライブに行った。しかしわたしはマンコパワームーブをやめなかった。前回の恋愛で、依存先がひとつだから破綻するのだと、依存先が複数あれば破綻は避けられると変な学習をしていたからだ。

 当然、浮気だと糾弾される。束縛がどんどんひどくなっていく。息苦しくなって別れた。

 

 またTinderをインストールする。メンヘラを二連発で引いてうまくいかなかったので、次は健常者と付き合おうと目論んだ。すぐに新しい彼氏ができた。

 1年半ほど付き合ったが、コロナ禍ということもありあまり会うことができず、価値観の差からどんどんすれ違い、最終的にはメンヘラ性を罵倒されて別れた。理解のない彼くんどころか、理解を放棄した彼くんだった。

 

 

 メンヘラとも上手くいかず、健常者とも上手くいかず、ほとんど絶望していた。Tinderも市民権を得てどんどんオワコン化し、女だらけの芸大と夜職の往復生活で出会いもなく、このままメンヘラババアとして孤独に死んでいくのかと怯えた。

 

 

 ある日、メンヘラのフォロワーの男と会うことになり、めちゃくちゃ仲良くなって、会って2回目で付き合うことになった。わたしは孤独に怯えすぎてメサコンに走り、このメンヘラを絶対に救ってやるぞという気持ちだった。

 しかしこのフォロワーは認知の歪みがひどく、被害妄想癖があり、ことあるごとに浮気を疑われた。スマホ指紋認証を寝ている間に解除されてLINEを勝手に見られたり、先日noteに書いたレイプの件でボコボコにセカンドレイプを受けたりしていたが、お互いに将来を考えていたので全て許していた。

 しかし彼は一向に救われようとしなかった。認知の歪みを指摘すると「僕はこういう人間なので」と開き直り、しかしわたしには変わることを求めてくるので、メサコンにも限界が来た。

 

 

 そして先日noteに書いた通り、別れた日に彼が自殺未遂をして、いまだに連絡が取れない状況だ。2年ほど軽躁で安定していたが、どうもこのあたりからまた不安定になっている。

 

 中途覚醒で目覚めた瞬間に、また新しい1日が始まることに絶望し、天井を見上げて虚無を見つめる。眠れないので、煙草を吸うために喫茶店に行ってTwitterを見る。救われるために短歌をつくる。帰宅して睡眠の続きをする。起床してまた絶望する。なんとか身体を縦にしてバイトに行く。帰宅して疲れて寝る。こんな感じの毎日だ。

 

 このように精神が不安定では大学院に行ったとてまた休学などを繰り返して苦しみそうなので、大学院進学は諦めた。今は大学を卒業するために精神をなんとか安定に近づけるのに精一杯で、就活を始めるエネルギーもない。春からはきっと無職になる。

 

 

 さまざまな事情で現時点ではあまり詳しいことは書けないが、現在もまた恋愛で脳をバグらせてなんとか生きている。もうこの人生は恋愛の脳内麻薬でなんとかごまかさないと生きられない。苦しすぎる。

 しかしバグっているうちは何にも代えがたく幸せなのだ。愚かな自分を忘れられる。

 この恋愛が最後になることを願っている。もうマンコパワーで得られるものに興味はない。いい加減に愛を全うして、愛のために生きて、愛のために死んでいきたい。

 この人のためならばもう人生がどうなってもいいと覚悟を決めているので、どうか、どうか……(?)

 

 

 

 以上が、わたしの青春時代の振り返りだ。

 とにかく一言でまとめれば「メンヘラ」に尽きるのが悔しい。紆余曲折ある青春だったが、どこにでもいるメンヘラと精神性は何も変わらない、没個性的メンヘラのテンプレそのものだ。

 機能不全家庭に生まれ育ち、中学受験からエリート街道に乗せられていたのに、6年かけて芸大を卒業し、おそらく無職になる人生。精神障害発達障害とメンヘラ恋愛脳。何重苦なんですか(泣)

 まあでも、わたしは救済されることを諦めないので……。やはり自己救済しかない。救われないまま死んでいくのは、これまでの苦しみが報われなさすぎるので、絶対に生き抜いて救済されてやる。どうぞよろしゅう。

 

 

 

どうせ自殺で終わらせる人生のくせに

 

 「理解のある彼女ちゃんになれなかった」の元彼が自殺未遂をして2週間が経った。

 

note.com

 

 彼からは相変わらず音沙汰がなくて、精神病棟に入院しているからスマホを見ることが許されていないのかもしれないし、自殺未遂以前の人間関係をリセットするためにSNSを全て消したのかもしれない。

 今朝、彼の自殺未遂の後の世界線の夢を見て、それはもうものすごい悪夢で(彼は自殺未遂で周囲に大きく迷惑をかけたことを全く反省していないというような内容)、わたしの目覚めは最悪だった。

 

 自殺防止月間とか、いのちの電話とか、各自治体の自殺ストップセンターとか、みんな綺麗事のように「死んだらまわりの人が悲しむよ」と掲げて、自殺志願者を踏みとどまることを促す。

 自殺志願者からすれば、周囲がどうなろうが自分の苦しい人生の責任を取ってくれない他人にそんな綺麗事を言われようが関係ないと思う。実際、わたしもそうだ。本当に苦しいときは他人なんて関係ない。望んで始まった人生ではないのだから、終わりぐらいは自分で決めさせてくれよと思う。

 

 しかし、いざ最も近かった他人に自殺未遂をされると、こちらとしてはたまったものじゃない。

 大切な人が死のうとしたことが悲しいというような綺麗な感傷ではない。

 わたしが彼に別れ話を持ちかけたから彼は死のうとしたんだという罪悪感とか、彼がすこやかに生きられるようにあんなにがんばってきたのに結局わたしは何の希望にもなれなかったんだという無力感とか、これまでわたしが割いてきた精神的・時間的リソースをおじゃんにする裏切りに対する、また彼の自殺未遂後に(彼に一番近かった家族以外の他人として)あらゆる方面に尻拭いをするハメになったことに対する怒りとか、ただでさえわたしは自分の人生で手がいっぱいなのに、これらの感情に頭を支配されている。

 

 それでもわたしの人生は続くし、別れたことでひらけた明るい道を歩き始めたけれど、ふとした瞬間にこの感情に苦しくなることがある。

 そして「自分が死んだあとのことなんか自分には関係ないから」とかつて彼が言っていた言葉にも腹が立ってくる。

 確かにもう介在できないという意味では彼には関係ないかもしれないけれど、周囲の人間は確実になんらかの物理的・精神的影響を受けるのだから、自分を愛してきてくれた人たちに対する最低限の配慮ぐらいしろよというか、どうしても自殺で人生を終わらせたいのであればそもそも初めから他人と関わろうとするなよ、一人で生きて一人で死ね、どうせ自殺で終わらせる人生のくせに暇つぶしなんだかせめてもの彩りなのか知らんが人間関係を娯楽として消費するなよ、どうせ愛を裏切っていなくなるのなら初めからいないように生きて誰にも影響を与えずに死ね。

 

 わたしがこんなに苦しめられなければならない意味がわからない。理不尽すぎる。わたしが彼に今まで捧げてきた愛は一体なんだったんだ。無下にしやがって。

 自分勝手な自殺企図。

 

 わたしはこれを許さなければならないのだろうか。許すにも大きなエネルギーが必要だし、これを抱え続けるにも大きなエネルギーが必要で、どちらもできそうになくて、もうどうしたらいいのかわからん。

 

 なんかいろいろ書こうと思っていたけれど飽きたのでここで終わる。とりあえず自殺企図をされると近しい人間は苦しいということだけを書きたかった。以上。

 

 

アートは綺麗事を唱えて大衆を味方につけるための道具ではない

 

 3/29(月)、Chim↑Pom「ハッピースプリング」展を森美術館で見た。わたしはかねてからChim↑Pomのファンであり、卯城竜太Chim↑Pom)・松田修「公の時代」は昨年一年間で読んだ本の中でもトップレベルに面白かった。

 

 一番のお目当ては「気合い100連発」だった。

 3.11直後の福島県相馬市で、ボランティアとして現地に足を運んだChim↑Pomと、地元の若者の合わせて10人が円陣を組み、津波によって大きな被害を受けた海ぎわで「復興がんばるぞ!」「福島最高!」「放射能最高!」とアドリブで叫んでいる様子を記録した映像作品である。あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」でも展示されたので大きな話題となった作品だ。

 

 わたしはこの映像作品をどうしても美術館で観たかった。

 スーパーラットや「また明日も観てくれるかな?」のアーカイブなどを足早に(それでもしっかりと)観ながら、ようやく「気合い100連発」のブースにたどり着いた。家が津波に流されたこと、大切なものをたくさん失くしたこと、放射能が故郷を汚すことに由来する、恐怖や不安、絶望や悲しみを持ち寄って、互いを鼓舞する若者たちの切実な叫びの記録が、あまりにも切なくて、プロジェクター前のソファの上でしくしくと一人で泣いた。

 

 Chim↑Pomはしばしばラディカルなアーティストと評されるが、そんな一筋縄なことばでまとめられるようなアーティストではないとわたしは思う。ネトウヨからは当然ひどく疎まれているし、ネトウヨでなくても彼らを好ましく思わない人も多いだろう。彼らの試みの多くは露悪趣味的で、センセーショナルで、下品で、一見幼稚に見えるからだ。

 しかし、本質のところは、(ことばにしてしまうと様々な感情が拾いきれないが)とにかくすべてが平和への祈りなのだ。

 Chim↑Pom福島原発の他にも、被爆地・ヒロシマアメリカの国境、都市論やジェンダー論などのトピックについて、アートを介して人々に問いかけている。こんなにも挑発的に、わかりやすく、それでいて切実に平和を祈るアーティストは(少なくともわたしの知る限りは)いない。

 

 そのChim↑Pomが、先日アーティスト名を「Chim↑Pom from Smappa!Group」へと改名した。

 Smappa!Groupは、新宿・歌舞伎町でホストクラブを運営するグループだ。

 今回、「ハッピースプリング」を森美術館で展示をするにあたって、様々な企業からの協力金をChim↑Pom側から集めることになったが、森美術館側はこのSmappa!Groupの申し出だけを断り、「六本木というまちづくりの顔となる美術館のブランディングの方針として、水商売の会社のロゴは掲載しない」と答えたことが発端になっている。

 

 まちづくりは、ときどき排除アートと揶揄されるように(宮下公園が有名だろう)、ジェントリフィケーションの負の側面を明るみにする。

 森美術館は六本木のまちづくりのために、水商売を排除した。一方で、同美術館は「アナザーエナジー展:挑戦しつづける力─世界の女性アーティスト16人」という企画を、美術の世界における性別・年齢・国籍などの多様性を掲げて展示した。

 この展示の他にも、館長が多様性についてインタビューを受けている記事はいくつもある。参考までにリンクを貼っておこう。

 

www.sankei.com

 

bijutsutecho.com

 

 どうして性別・年齢・国籍などの属性には配慮しておきながら、職業だけを排除するのだろうか?

 

 

 アートにおいて、性別・年齢・国籍など、生まれ持ったものについて多様性を謳うことは簡単だ。ただ属性の異なる作家をひとつの企画に呼んでキュレーションすれば済むのだから(思いつくのは簡単だという意味で、実践が簡単だという意味ではない)。そしてそれを謳っておけば、鑑賞者からは「新しい価値観に適応した美術館だ!」と持て囃される。

 しかし、アートは綺麗事を唱えて大衆を味方につけるための道具ではない。一度でも多様性について触れたのであれば、そこからこぼれ落ちていったものひとつひとつと丁寧に向き合う義務がある。それを放棄している限りは、差別主義者と変わらない。

 

 水商売には負のイメージが伴う。わたし自身、学業のかたわらアルバイトとして4年間やっているので、水商売の女として差別的な目を向けられてきたことも多々ある。別に、ただの個人から職業差別をされてもハイハイと聞き流すことができる。勝手に言わせておけばいい。

 ただ、多様性を謳う現代美術の美術館がそれをするのはダブルバインドだろう。森美術館は誰のために多様性を謳っているのか?森美術館の提唱する”現代アート”は誰のためにあるのか?

 ただ綺麗な多様性を掲げて、綺麗なアートだけを飾って、大衆からお金を巻き上げて、大衆を綺麗な気持ちで帰らせるだけで、大衆によって未だ許されている差別には平然と加担する美術館に、”現代アートの美術館”を名乗る資格があるだろうか?

 

 

 

 そして、質問箱にこのような質問が送られてきた。

 

 

 質問がなかなか抽象的なので、ここで言う「権力」が一体何を指しているのかは察するしかないのだが、Chim↑Pomへの批判をいろいろ見てみたところ、永瀬恭一氏や大野左紀子氏のこの辺りのツイートが元っぽいので、それと仮定して話を進めることにする。

 

 協力元となるはずだったSmappa!Groupの名前を冠するにあたって、ここで批判されるべきはChim↑Pomではなく、森美術館、そして展示にかかる資金をアーティスト側が自力で調達しなければ成立しない日本の現代美術と資本主義の関係性だとわたしは考える。

 森美術館の管理運営は森ビル株式会社であり、民間企業による運営である。税金が投入される美術館ではないので、パブリックな美術館に比べれば比較的キュレーションに自由がきくし(このこともまた別の問題を孕んでいるが)、現代美術のアーカイブのような役割が期待されるわけではない。あいちトリエンナーレが公金の使い道という点でネトウヨたちから批判されたように、おそらく今の日本の公営の美術館ではChim↑Pom展は開催できないだろう。

 なぜ森美術館が協賛企業をアーティスト側に探させたのかはわからないが、おそらく森美術館の持つ資本だけではあの規模の展示は成立させられないのだろう。

 

 日本の資本主義は美術(とりわけ現代美術)に無関心である。アート市場の経済規模は海外のアートシーンに比べても小さい。実際、「ハッピースプリング」の協賛企業は、アートやデザイン関連の企業が主に名を連ねている。いわゆるアートに理解のある企業くんが少ない。

 Chim↑Pomは他の日本のアーティストに比べて強い政治性を帯びたアーティストであるために、そこに協賛するということはあらゆる方面からの批判(それらのほとんどが的外れであったとしても)にさらされる覚悟が必要だとは思われる。

 しかし、ここでラディカルなアートを支援することに怖気付いて、政治についてさも中立的であるかのように振る舞う事なかれ主義なところに日本の資本主義の弱さがある。政治的でないというスタンスもまた政治的であることに無自覚なのか、それをあえて無視しているのかは定かではないが、どちらにせよ政治的なものとは距離を置くことがスタンダードとされている限り、日本の現代美術と資本主義の間の溝はどんどん深まる一方だろう。

 アートと資本主義というのは元来相性が悪いものではあるが、それを言い訳にしていてはアートは衰退していくし、資本主義もまたここに生きる人々を不幸にして破綻するだろう。アートと資本主義の共倒れの危機にある今、資本主義側がやるべきことは、アートに歩み寄る覚悟を持つことではないだろうか。

 

 

 アーティスト・コレクティブの話題に移ろう。上記の質問箱で言われている「仕掛け」ということばがどういう意味で用いられているのか、これもまた推測するしかない。

 現役のアーティスト・コレクティブにはChim↑Pomの他にも、パープルーム予備校やcontact Gonzoなどが挙げられるだろう。60年代のハイレッド・センターや80年代のダムタイプもそうだろう。個のアーティストで美術を開拓する従来の戦い方ではなく、アーティスト同士がぶつかり合うことで生まれるエネルギーで新しい美術の枠組みを提案する戦い方だ。

 この戦い方に救われてきたアーティストは少なくないだろう。ただのアーティスト集団ではなく、メンバーそれぞれがアーティストとして強いイデオロギーを持ち続け、それをアートとして融合させることに意味がある。三人寄れば文殊の知恵のようなもので、アートに対して一人でできることには限界があるし、この戦い方はこれからの現代美術にも必要とされるだろう。

 

 

 Chim↑Pomはアーティスト・コレクティブという仕掛けを利用して、ただ自身をコンテンツ化して現代美術シーンのアーティスト・コレクティブ・ブームに乗っかったにすぎないのだろうか?

 

 現在主流となっているアーティスト・コレクティブの最盛期はおそらく00年代後半〜10年代後半だろう。

 当時のわたしはアートのアの字も知らないお絵描き中高生だったので、当然それが流行っていたなどの実感もなく、ただインターネットに残されたアーカイブ美術手帖などの雑誌を読んで後から追うことしかできないのだが、今やアーティスト・コレクティブという戦い方は全く新しい手法ではないし、むしろ現代美術シーンで成功した勝ち組のアーティスト・コレクティブの仲間に入れてもらうことは光栄なことであると(一般的には)されているぐらいには、現代美術の枠組みの中でのひとつの規範のようなものになってしまっている。

 

 Chim↑Pomが結成されたのは2005年だ。現在のアーティスト・コレクティブの潮流の中では少し早い方だと思われる。とはいえ、ハイレッド・センターダムタイプなどの先人たちが現代美術に残したさまざまな形跡のことを考えると、やはり新しい手法とは言えない。しかも、アーティストとしてデビューした場所は会田誠氏の個展会場の一角だ。彼らは初めから現代美術シーンにズブズブなのだ。

 これらを見ると、一見ラディカルと評される斬新なことをやっている彼らも、誰も言わないようなことを誰もやらない方法でやっているというだけで、システムとしては目新しくない。

 

 とはいえ、卯城竜太氏、エリイ氏、林靖高氏、水野俊紀氏、岡田孝氏、稲岡求氏の6人のそれぞれがソロのアーティストだったら、定期的にタッグを組む現代美術の世界の仲良し6人組だったら、ここまでChim↑Pomは現代美術シーンの勝ち組になれただろうか?

 わたしは、Chim↑Pomがアーティスト・コレクティブの枠組みを利用したのは、彼らの戦略だと考えている。いわば左翼的な平和への祈りを、Chim↑Pomというキャッチーな名前で、挑発的な態度でセンセーショナルに、しかし思想の基盤はしっかりと固めながら、アートの文脈をもってして実行する。Chim↑Pomが結成された2005年から現在に至るまで、日本の現代美術シーンに彼らと同じフィールドで肩を並べるようなアーティストがいなかったからこそ、Chim↑Pomは現代美術の勝ち組となったのだ。それを彼らははじめから見越していたのではないだろうか。

 

 彼らのような”真面目に不真面目”的な態度を貫くアーティストが今や日本の現代美術の優等生となり、お手本のような立ち位置になっていることは皮肉ではあるが、美術史とはアーティストの起こす革命の連続体だ。革命にはコンテクストが必要不可欠である。ぽっと出のビギナーズ・ラックでは革命を起こせない。

 ほとんど飽和状態にあり、新しい"アート"の提案が難しい現代美術の世界で、Chim↑Pomはタイミングよくうまく"目新しくはないが誰もやっていないこと"をやってのけた。

 

 彼らにとって、アーティスト・コレクティブというものははじめから ”仕掛けにすぎない”のではないか。いまさら「仕掛けを利用したにすぎない」という批判がなされたとて、そもそもはじめからそう意図しているのだからそりゃあそうだろう、ということにしかならない。このようにわたしは推測している。

 

 

 以上をもって、上記の質問箱への回答とさせていただく。

 Chim↑Pomの擁護に偏ったのはChim↑Pomへの愛ゆえでもあるが、たとえわたしがChim↑Pomのアンチだったとしても、森美術館のやり方は間違っていると非難するだろうし、Chim↑Pomは結成当初からアーティスト・コレクティブの構造を利用する気だったのではないかと書くだろう。

 バイアスのみで出した結論ではないことをご理解いただきたい。

 

 普段アートについて語ったとしても140字×3のリプライツリー程度で、主語の大きいざっくりとした根拠のないお気持ち表明で、何かを引用して長文を書くという試みはほとんど初めてだった。とても苦しく根気のいる作業ではあったが、半年後に大学院入試を控えているのでいいトレーニングになった。

 そして、参考にするためにさまざまなアーティストや批評家の意見を主にTwitterで見たが、己の不勉強さを実感した。彼らの思考のレイヤーの深さと、アートの当事者としての意識には到底叶いそうにないことに絶望した。まだまだ読まなければならない本がたくさんあるし、同時に現代美術を追わなければならない。

 

 この記事に書いたことの全てが稚拙に見えて恥ずかしくなる日が来ることを自分自身に期待している。

 

 

 

家族の呪い



 わたしは今、香川にいる。父・弟・わたしの3人で、うどんを食べるためだけに来た(父の運転で)。


父・弟・わたしの3人ということは、母は仲間はずれである。なぜなら母は家族旅行のすべてをクラッシュする常習犯だからだ。



 小学生ぐらいまでは、毎年夏休みに家族旅行に行っていた。家族旅行と言えば聞こえはいいが、いつも家族内で揉め事が起きて内部分裂する。だいたい父・弟と母・わたしの組み合わせに分かれていた。これはわたしが母について行ったのではなく、母のわたしに対する異常なまでの執着ゆえに向こうにつくことができなかったのだ。


 ホテルのロビーで某通信教育Z〇のテキストを解き終えなければ、せっかく水着を持ってきていても、プールに入れさせてもらえなかった。



 久々の家族旅行(母除く)、いろいろと考えさせられる。


 うちの母がおかしいのは大前提としても、やはり(母除く)は心苦しい。母は家族の誰からも見放されている。幸いにも本人は気づいていないが、それでもわたしが母を仲間はずれにすることに加担しているという立場は変わらない。


 母を混じえた喧嘩だらけの家族旅行にはもう懲り懲りだが、母を仲間はずれにした平和風の家族旅行にも後ろめたさがある。



 少し前、父親に「あいつと離婚してでもお前の中学受験を止めておけばよかったとずっと後悔している」と言われた。中学受験以降、わたしの人生(と精神)が狂っていったことを、母親という、子にとってこれ以上にない大きな権力を横目に、ただ傍観することしかできなかったことを悔やんでいるのだと思う。


 父の言う通り、離婚していたらまた違う人生だったかもしれない。教育虐待も早く幕を閉じたかもしれない。なんせ母は働いてはいるがおそらく家には稼いだお金を入れておらず、実質父がひとりでわたしと弟と母を養っていたようなものだろう。



 しかし、人生にタラレバはない。今を生きるしかないのだ。


 この家族は、きっともうバランスを崩したまま、時を過ごしてそれぞれが死んでいくことで終わるコミュニティなのだと思う。


 当然、わたしは母から解放されたい。でも、事なかれ主義的に母を仲間はずれにする父と弟にも違和感を感じる。憎しみをもって他者を加害にさらすことをわたしはしたくない。しかし、この旅行に来ている限りはそれに加担している。


 もう、とにかく、苦しい。この家族の呪いから解放されたい。そしてこんなことを考えていることも、せっかく旅行に連れてきてくれた父親に申し訳ない。逃げ道がどこにもない。



 わたしはどうしたらいいんだろう。どうしたら誰も互いに傷つけずに家族全員で救われるんだろう。


 もはやそんな道はないのだろうか。



恵まれているからこそ

 

 Twitterで教育虐待の話を見て苦しくなってしまったので、セルフカウンセリングの一環として文章を書くことにした。過去に書いた話の繰り返しになる部分もあるが、この記事の目的はセルフカウンセリングなので大目に見ていただきたい。

 また、教育虐待を受けた人たちにとっては読んでいて苦しい部分もあると思う。くれぐれもこころの調子には注意して、調子が悪くなったらすぐに読むのをやめてほしい。自己責任でお願いします。

 

 

 わたしが虐待を受けていたことを自覚したのは19歳の頃、浪人生時代だった。予備校の同期と幼少期の話をしているときに、「それ虐待じゃない?」と言われたのがきっかけだった。

 

 わたしの母親は強烈な学歴コンプレックスで、自身も三流私大通信から慶應大通信へロンダリングし教員免許を取って卒業、高校教師時代に父と出会い結婚し出産、わたしと弟の手が離れてからさらに神戸大学修士号を取っている。

 学歴コンプの親を持つ子供は大変だ。なぜか学歴コンプの親は揉め事を暴力で解決する率が高い。おそらく彼らの学歴コンプレックスは、自身の親から”教育を受けさせない”虐待を受けていた反動に生まれている。”教育を受けさせない”虐待に暴力が伴うことはなんとなく想像できる。

 

 幼稚園の年中生の頃、九九を完璧に暗唱できるまで引っ叩かれ続けていた。親から出された課題を終えていなければごはんを食べさせてもらえなかった。テストで100点以外の点数を取ったときは露骨に機嫌を悪くした。欲しいものを買ってもらえるのは漢検や英検や目標偏差値を達成したときだけだった。バカが感染るから(地元は治安が非常に悪い)と友達とは遊ばせてもらえなかった。テレビを見ていいのは夜ごはんの時間だけだった。

 「あんたはいい大学に行っていい企業に入っていい男と結婚するんや」と言うのが母の口癖だった。実家から通える国公立大(京大・阪大・神大など)に進学するために、18歳まで母の言いなりの勉強漬けの毎日だった。

 青春らしい青春はほとんどなかった。唯一自分の意思でやり遂げた青春らしいことといえば高校時代の運動部のマネージャーだが、これもこれで大変に面倒で、一緒にマネージャーをしていた同級生の人格が難ありで散々苦しめられた。母はわたしが部活を辞めて勉強に専念するように仕向けるために、遠征の交通費や合宿の参加費を一切出さなかった。予備校に行くふりをして家を出て、高校生でもできる派遣の日雇いバイトでなんとかまかなった。

 

 いざ大学受験を目の前にすると、いよいよわたしも目を覚ますことになる。これは誰のための人生なんだ、と考えるようになった。大学進学のつぎの人生の起点は就職活動である。就職活動では大学時代に力を入れたこと(いわゆるガクチカ)をとにかくプレゼンさせられると聞いていた。行きたくもない大学に行って、何に力を入れればよいのかわからない。

 小さい頃にはイマジナリーフレンドがいて、その会話を漫画に描き起こすのが好きだった。絵が人よりは描けるからという理由で、吹奏楽部の演奏会ポスターや体育祭の応援団の旗のデザインを頼まれたりしていた。

 芸大に行こうと思った。高3の夏だった。

 

 母の学歴コンプに気づくまで、母が国公立大にこだわる理由は家の経済力の問題だと思っていたので、私立芸大は考えなかった。大阪の実家から通えそうな国公立の芸術大学京都市立芸術大学しかなかった。ネットで情報を見る限り、半年の受験対策では到底合格できそうになかったので、浪人しようと決めた。当然母には猛反対されて、鬼の形相で怒鳴られたけれど、もうわたしのこころは決まっていた。

 「お金は自分でなんとかするので、もうわたしの進路に口を出さないでください」と言って、センター試験は受けたがどこの大学にも出願しなかった。そのままぬるっと高校を卒業し、地元のミスドで働きながら画塾代や画材費をまかなう浪人生になった。

 

 父方の祖母はかねてからわたしを可哀想だと思っていたらしく、浪人するならバイトを辞めてしっかり勉強してほしい、と数十万円の支援をしてくれた。これに自分のバイト代を上乗せすれば、京都市内の大手予備校に通える計算だったので、地元の画塾には未払いの授業料があったが、その予備校の通学部の学費にすべて突っ込んだ。夏期講習や冬期講習などの授業料は期限を大幅に遅らせてもらった。センター試験後の直前講習の授業料は、京芸の実技試験の3日前に払った。

 ミスドADHDがひどく、お局ババアからパワハラを受けてメンタルを壊して3ヶ月で辞めたので、週6で早朝のコンビニバイトをして授業料や画材費、交通費、モチーフ代、模試の受験料などに充てた。未払いだった地元の画塾の授業料は、あまりにも未払いが過ぎて実家に連絡が行ってしまい、父が払ってくれた。

 

 京都市立芸術大学美術学部工芸科には一浪で合格することができた。と言うのも元がガリ勉だったので、センター試験でかなりの点数を稼ぐことができたのだった。予備校ではいつも中の下ぐらいの評価で、講師陣の誰もわたしに期待していなかった。

 ちなみに、念のために後期には寮のある広島市立大学芸術学部に出願したが、母の”実家から通える”大学という条件を満たさないので、受験料の数万円は自己負担だった。なぜあんなに”実家から通える”ことにこだわったのか当時は分からなかったけれど、今思えばわたしを手元に置いておきたかったのだと思う。シンプルに怖い。

 

 父と祖母の支援がなければわたしは浪人を失敗するどころか、母から家も追い出されて借金だらけの人生になっていたと思う。本当に感謝している。今となっては母は「日本で一番歴史のある公立芸大に娘が通っている」ということでご満悦だ。母を裏切るつもりで芸大に進学したのに、結局また母を喜ばせる結果になってしまったのが皮肉すぎる。

 

 ただ父の難点として、JASSO(日本学生支援機構)のアンチで、奨学金を借りさせてもらえないことがその後かなりネックになった。

 1回生の前期は実家から通っていたのだが、片道2時間半とかなり通学時間がかかりすぎることと、いくら学歴主義の洗脳から解放されたと言ってもそもそも人格に難があるから学歴コンプになるわけで、そんな母と暮らすのがとても苦しくメンタルに悪影響だったので、また鬼のようにアルバイトをしてお金を貯めて、1回生の冬に勝手に実家を出た。連帯保証人が一人でよい物件を探し、父にサインしてもらった。

 大学の最寄のひとつ隣の駅で、1K6畳で家賃3.5万円(敷金礼金なし)の激安ハイツに住んだ。まわりの一人暮らしの大学生のマンションにある玄関もなければオートロックもない、ドアノブも壊れかけで開け閉めするたびにデカい音が鳴り隣人から苦情の来るような部屋だった。

 それでも母から逃げることが最優先だった。当然、母からの仕送りは見込めないので、父からの仕送りに頼ることになる。その仕送りもほとんど家賃に消えるので、2回生の夏からキャバクラで働くことにした。

 

 一方、大学生活の方はというと全くうまくいっておらず、そもそも手先が不器用でいい加減な性格のADHDに集団行動が必要とされる工芸が向いているわけがなかった。不登校がちになりどんどん馴染めなくなった。ひとりでもやっていける専攻に転科することにした。

 すると、もう一度1年生からやり直して美術科として単位を取り直さなければならなくなった。最短でも2年卒業が延びる。もうどうでもよかった。奨学金を借りられないなら、自分で稼げばいい。苦しい環境からは自力で抜け出せばいい。半年休学して、週6でキャバクラで働き、留年する1.5年分の学費を貯めた。

 

 休学中に60万ぐらい貯めたと思う。復学してからしばらくしてキャバクラを辞めてコンカフェに移った。そこで20万を貯めた。貯金の目標額は留年する1.5年分の学費、80万だった。80万貯めたことが嬉しくて、激安ハイツでの限界暮らしから脱却しようと引っ越した。

 その頃にはもはや大学に自分の居場所はなく、京都の他大学のフォロワーとばかりつるんでいたので、もう大学なんて全然関係のない、ただ住みたいところに住んだ。家賃は少し上がったが、やはりないお金は稼げばいい。

 

 貯金は減らないけど増えもしない、不安定に安定した暮らしを送って半年ほど経った頃、諸事情でコンカフェが潰れた。潰れ方が潰れ方なので、関西では大きなニュースになった。そのニュースを父が目にして、夜職をしていることがバレた。

 もちろん「辞めろ」と言われた。辞められるわけがなかった。そもそも仕送りで生活できない上に、奨学金を借りられず、昼の飲食バイトでは稼ぎきれないから夜職をやっているのだ。お金があればやっていない。仕送りも少ない、奨学金も借りさせない、夜職も禁止。事実上の死刑宣告である。

 

 もういい加減に親から解放されたかった。扶養を外れて、家賃の保証人も辞めてもらって、学費も自己負担して、完全に自立した方が生きやすいかもしれない。貯金も60万はあるので、学部は卒業できる。就活もまだ間に合う。もう人生どうにでもなれという一心だった。もうすでに"正しい"ルートからは外れているのだから、それならばどこまでずれても同じだ。

 わたしは「みんな奨学金を借りて週2~3で軽くバイトして楽しそうにしてるのに、わたしはあなたがJASSOのアンチであるせいでバイトばかりしている」「将来のために今は我慢しなさいって、言うことやること母親と同じやね」と言った。

 すると、奨学金を借りさせなかったことについて父から謝られた。代わりに、留年した1.5年分と大学院の1年分、大学院の入学金は負担してくれることになった。夜職も年内で辞めればいいということになった。ただ、「母に仕送り増額の打診をしてほしい」と言ったところ、母は仕送りをする気がないとのことだった。

 

 父からのやさしさが時々苦しい。わたしがどれだけ母のおかしさのせいでお金に困っても、いつも父ばかりに負担をかける。母は、よく分からない化粧品や食糧を送ってくれることはあっても、仕送りはくれない。わたしの諸問題については母に恨みがあるので、父に解決してもらってもただ罪悪感でいっぱいになるだけだ。

 ただ、今になってやさしくなるぐらいなら、母から虐待を受けていた頃のわたしを救ってほしかったと思ってしまう。ぶっ壊れたメンタルも、回り道しすぎた人生も、もう元には戻らない。

 でもこれは恵まれているからこそ言えることだ。

 インターネットを見ている限り、わたしは随分と恵まれているほうで、世の中には両親ともにイカれている家庭がある。この記事を書くきっかけとなったツイートもそうだった。わたしはまだ父親がまともだ。家賃の保証人になってくれるから、住む家には困らないし、破綻した家族経済からも、わたしの余分な学費を捻出してくれる。

 

 たとえ苦しくても、わたしがなんとかなっているのは恵まれているからだ、と自分に言い聞かせるたびに、わたしの恵まれなかった部分についた傷の口が広がる。恵まれる、恵まれない、というのはグラデーションになっていて、明確な線引きがないから、自分より恵まれている人を見ると羨ましさで死にそうになるし、自分より恵まれていない人を見ると自分が恵まれていることを罪だと思ってしまう。苦しむ権利は自分にはないと錯覚してしまう。

 恵まれたひとにも、恵まれなかったひとにも罪はない。誰だって苦しんでいいし楽しんでいい。その人にはその人の痛みがある、ということをわたしはよく人に言うのに、どうして自分にはそれを適応できないのだろうか。

 

 

3年半前からあなたに呪われたままでした

 

 約4年前にわたしの人生を狂わせた元彼が結婚するらしい。

 久しぶりにネトスト能力を駆使してヲチろうかと、ちゃっかりブログまで読んでみたら「義母になるひと」と書いてあった。親に「いつ入籍するん?」と聞かれた、とも書いてあった。

 

 

 恋人がいるのはかねてから知っていた。たぶんわたしと別れてから1年半後ぐらいにできた彼女だと思う。別れたのは3年半ぐらい前。だから付き合って2年ぐらい?

 別れたのは相手が大学院に進学してすぐの頃だったと思う。わたしは大学2年生の夏だった。

 

 付き合っていたのは1年足らずだったけれど、人生で一番大きな恋愛だった。初めて自分から好きになった人と両思いになって、初めてセックスをして、初めて家族以外の人と旅行に行って、初めて振られた。わたしのあらゆる初めてを持っていった男が、「もうこれ共依存だね」「君が死ぬときは僕も一緒に死ぬからね」と言っていたくせにわたしを見捨てた男が、ついに運命の赤い糸の結びつく先を見つけたらしい。

 

 おめでとう。

 

 2年も付き合っていて、しかもお互いに社会人なら、一緒に住んだ方がいろいろと便利だし、そのまま結婚をするというのは自然な流れだろう。その恋人のことは知らないが、元彼の方はもうすぐ26歳になる。何もおかしいことはない。

 

 おかしいとすればそれはわたしの時間軸の方だ。

 だいたいの人は4年で大学を卒業して社会に出る。新卒2年目で、現時点での恋人との結婚を考えたり、恋人がいなければ合コンなどで”いい人”との出会いを探し、早い人では婚活をはじめるような年齢だろう。

 わたしはまだまだ大学生。もうすぐ25歳、もうすぐ6年生になる。

 

 

 元彼に対する未練は全くないし、自分がまだまだ大学生であること(しかも修士まで行こうとしていること)への後ろめたさも特にない。わたしはわたしらしく生きていくつもりなので別にそこはどうだっていい。

 ただ、わたしが人生を停滞させている間に、わたしを見捨てていった男がもっと前進していることに怖くなった。

 

 わたしはこの人に振られてから性依存症が顕著になって(生育環境などの複合的な理由で陥るものなので100%この人のせいというわけではないが)、そこから性倫理をバグらせていった。穴モテ上等だとかポリアモリーだとか開き直れるようなものじゃない。

 本当はみんなと同じような普通の性倫理のままでいたかった。

 一滴でも絵具の混じってしまった水は、元の透明には戻らない。ずっとうっすら濁り続ける。

 

 

 元彼が人生を前進させている3年半で、わたしは自暴自棄的に性倫理を拗らせ、始まった時点で終わりの見えているような恋愛ばかりを繰り返し、つくづく恋愛が救済でないことを思い知って、歳だけを重ねた。

 

 わたしはどうしても結婚がしたい。なんか独身って惨めだから。結婚することが必ずしも幸せではないとは分かっているけれど、結婚できない人生は幸せではないと思っている。

 もし本当に結婚がしたいのならば、いよいよ拗れた性倫理とどうしようもない恋愛脳を終わらせなければならない。

 

 

 もうくだらない恋愛はしない。性依存症だとかポリアモリーだとか、普通の恋愛(?)ができないことについて屁理屈を言うのをやめようと思う。

 まあ来年度に学部を卒業して、修士に行くつもりだし、大学院入試に落ちても院試浪人をするつもりでいるから、学生結婚でもしない限り、結婚なんて遥か先の話なんですが……。

 

 わたしは絶対に幸せになる。恋愛が救済の全てではないけれど、恋愛は救済の一部だと思うから。

 

 

 これをもって元彼へのお祝いの言葉とさせていただきます。わたしは3年半前からあなたに呪われたままでしたが、あなたの結婚の知らせのおかげで目を覚ますことができました。

 どうかお幸せに。わたしを見捨ててよかった人生にしてください。