恵まれているからこそ

 

 Twitterで教育虐待の話を見て苦しくなってしまったので、セルフカウンセリングの一環として文章を書くことにした。過去に書いた話の繰り返しになる部分もあるが、この記事の目的はセルフカウンセリングなので大目に見ていただきたい。

 また、教育虐待を受けた人たちにとっては読んでいて苦しい部分もあると思う。くれぐれもこころの調子には注意して、調子が悪くなったらすぐに読むのをやめてほしい。自己責任でお願いします。

 

 

 わたしが虐待を受けていたことを自覚したのは19歳の頃、浪人生時代だった。予備校の同期と幼少期の話をしているときに、「それ虐待じゃない?」と言われたのがきっかけだった。

 

 わたしの母親は強烈な学歴コンプレックスで、自身も三流私大通信から慶應大通信へロンダリングし教員免許を取って卒業、高校教師時代に父と出会い結婚し出産、わたしと弟の手が離れてからさらに神戸大学修士号を取っている。

 学歴コンプの親を持つ子供は大変だ。なぜか学歴コンプの親は揉め事を暴力で解決する率が高い。おそらく彼らの学歴コンプレックスは、自身の親から”教育を受けさせない”虐待を受けていた反動に生まれている。”教育を受けさせない”虐待に暴力が伴うことはなんとなく想像できる。

 

 幼稚園の年中生の頃、九九を完璧に暗唱できるまで引っ叩かれ続けていた。親から出された課題を終えていなければごはんを食べさせてもらえなかった。テストで100点以外の点数を取ったときは露骨に機嫌を悪くした。欲しいものを買ってもらえるのは漢検や英検や目標偏差値を達成したときだけだった。バカが感染るから(地元は治安が非常に悪い)と友達とは遊ばせてもらえなかった。テレビを見ていいのは夜ごはんの時間だけだった。

 「あんたはいい大学に行っていい企業に入っていい男と結婚するんや」と言うのが母の口癖だった。実家から通える国公立大(京大・阪大・神大など)に進学するために、18歳まで母の言いなりの勉強漬けの毎日だった。

 青春らしい青春はほとんどなかった。唯一自分の意思でやり遂げた青春らしいことといえば高校時代の運動部のマネージャーだが、これもこれで大変に面倒で、一緒にマネージャーをしていた同級生の人格が難ありで散々苦しめられた。母はわたしが部活を辞めて勉強に専念するように仕向けるために、遠征の交通費や合宿の参加費を一切出さなかった。予備校に行くふりをして家を出て、高校生でもできる派遣の日雇いバイトでなんとかまかなった。

 

 いざ大学受験を目の前にすると、いよいよわたしも目を覚ますことになる。これは誰のための人生なんだ、と考えるようになった。大学進学のつぎの人生の起点は就職活動である。就職活動では大学時代に力を入れたこと(いわゆるガクチカ)をとにかくプレゼンさせられると聞いていた。行きたくもない大学に行って、何に力を入れればよいのかわからない。

 小さい頃にはイマジナリーフレンドがいて、その会話を漫画に描き起こすのが好きだった。絵が人よりは描けるからという理由で、吹奏楽部の演奏会ポスターや体育祭の応援団の旗のデザインを頼まれたりしていた。

 芸大に行こうと思った。高3の夏だった。

 

 母の学歴コンプに気づくまで、母が国公立大にこだわる理由は家の経済力の問題だと思っていたので、私立芸大は考えなかった。大阪の実家から通えそうな国公立の芸術大学京都市立芸術大学しかなかった。ネットで情報を見る限り、半年の受験対策では到底合格できそうになかったので、浪人しようと決めた。当然母には猛反対されて、鬼の形相で怒鳴られたけれど、もうわたしのこころは決まっていた。

 「お金は自分でなんとかするので、もうわたしの進路に口を出さないでください」と言って、センター試験は受けたがどこの大学にも出願しなかった。そのままぬるっと高校を卒業し、地元のミスドで働きながら画塾代や画材費をまかなう浪人生になった。

 

 父方の祖母はかねてからわたしを可哀想だと思っていたらしく、浪人するならバイトを辞めてしっかり勉強してほしい、と数十万円の支援をしてくれた。これに自分のバイト代を上乗せすれば、京都市内の大手予備校に通える計算だったので、地元の画塾には未払いの授業料があったが、その予備校の通学部の学費にすべて突っ込んだ。夏期講習や冬期講習などの授業料は期限を大幅に遅らせてもらった。センター試験後の直前講習の授業料は、京芸の実技試験の3日前に払った。

 ミスドADHDがひどく、お局ババアからパワハラを受けてメンタルを壊して3ヶ月で辞めたので、週6で早朝のコンビニバイトをして授業料や画材費、交通費、モチーフ代、模試の受験料などに充てた。未払いだった地元の画塾の授業料は、あまりにも未払いが過ぎて実家に連絡が行ってしまい、父が払ってくれた。

 

 京都市立芸術大学美術学部工芸科には一浪で合格することができた。と言うのも元がガリ勉だったので、センター試験でかなりの点数を稼ぐことができたのだった。予備校ではいつも中の下ぐらいの評価で、講師陣の誰もわたしに期待していなかった。

 ちなみに、念のために後期には寮のある広島市立大学芸術学部に出願したが、母の”実家から通える”大学という条件を満たさないので、受験料の数万円は自己負担だった。なぜあんなに”実家から通える”ことにこだわったのか当時は分からなかったけれど、今思えばわたしを手元に置いておきたかったのだと思う。シンプルに怖い。

 

 父と祖母の支援がなければわたしは浪人を失敗するどころか、母から家も追い出されて借金だらけの人生になっていたと思う。本当に感謝している。今となっては母は「日本で一番歴史のある公立芸大に娘が通っている」ということでご満悦だ。母を裏切るつもりで芸大に進学したのに、結局また母を喜ばせる結果になってしまったのが皮肉すぎる。

 

 ただ父の難点として、JASSO(日本学生支援機構)のアンチで、奨学金を借りさせてもらえないことがその後かなりネックになった。

 1回生の前期は実家から通っていたのだが、片道2時間半とかなり通学時間がかかりすぎることと、いくら学歴主義の洗脳から解放されたと言ってもそもそも人格に難があるから学歴コンプになるわけで、そんな母と暮らすのがとても苦しくメンタルに悪影響だったので、また鬼のようにアルバイトをしてお金を貯めて、1回生の冬に勝手に実家を出た。連帯保証人が一人でよい物件を探し、父にサインしてもらった。

 大学の最寄のひとつ隣の駅で、1K6畳で家賃3.5万円(敷金礼金なし)の激安ハイツに住んだ。まわりの一人暮らしの大学生のマンションにある玄関もなければオートロックもない、ドアノブも壊れかけで開け閉めするたびにデカい音が鳴り隣人から苦情の来るような部屋だった。

 それでも母から逃げることが最優先だった。当然、母からの仕送りは見込めないので、父からの仕送りに頼ることになる。その仕送りもほとんど家賃に消えるので、2回生の夏からキャバクラで働くことにした。

 

 一方、大学生活の方はというと全くうまくいっておらず、そもそも手先が不器用でいい加減な性格のADHDに集団行動が必要とされる工芸が向いているわけがなかった。不登校がちになりどんどん馴染めなくなった。ひとりでもやっていける専攻に転科することにした。

 すると、もう一度1年生からやり直して美術科として単位を取り直さなければならなくなった。最短でも2年卒業が延びる。もうどうでもよかった。奨学金を借りられないなら、自分で稼げばいい。苦しい環境からは自力で抜け出せばいい。半年休学して、週6でキャバクラで働き、留年する1.5年分の学費を貯めた。

 

 休学中に60万ぐらい貯めたと思う。復学してからしばらくしてキャバクラを辞めてコンカフェに移った。そこで20万を貯めた。貯金の目標額は留年する1.5年分の学費、80万だった。80万貯めたことが嬉しくて、激安ハイツでの限界暮らしから脱却しようと引っ越した。

 その頃にはもはや大学に自分の居場所はなく、京都の他大学のフォロワーとばかりつるんでいたので、もう大学なんて全然関係のない、ただ住みたいところに住んだ。家賃は少し上がったが、やはりないお金は稼げばいい。

 

 貯金は減らないけど増えもしない、不安定に安定した暮らしを送って半年ほど経った頃、諸事情でコンカフェが潰れた。潰れ方が潰れ方なので、関西では大きなニュースになった。そのニュースを父が目にして、夜職をしていることがバレた。

 もちろん「辞めろ」と言われた。辞められるわけがなかった。そもそも仕送りで生活できない上に、奨学金を借りられず、昼の飲食バイトでは稼ぎきれないから夜職をやっているのだ。お金があればやっていない。仕送りも少ない、奨学金も借りさせない、夜職も禁止。事実上の死刑宣告である。

 

 もういい加減に親から解放されたかった。扶養を外れて、家賃の保証人も辞めてもらって、学費も自己負担して、完全に自立した方が生きやすいかもしれない。貯金も60万はあるので、学部は卒業できる。就活もまだ間に合う。もう人生どうにでもなれという一心だった。もうすでに"正しい"ルートからは外れているのだから、それならばどこまでずれても同じだ。

 わたしは「みんな奨学金を借りて週2~3で軽くバイトして楽しそうにしてるのに、わたしはあなたがJASSOのアンチであるせいでバイトばかりしている」「将来のために今は我慢しなさいって、言うことやること母親と同じやね」と言った。

 すると、奨学金を借りさせなかったことについて父から謝られた。代わりに、留年した1.5年分と大学院の1年分、大学院の入学金は負担してくれることになった。夜職も年内で辞めればいいということになった。ただ、「母に仕送り増額の打診をしてほしい」と言ったところ、母は仕送りをする気がないとのことだった。

 

 父からのやさしさが時々苦しい。わたしがどれだけ母のおかしさのせいでお金に困っても、いつも父ばかりに負担をかける。母は、よく分からない化粧品や食糧を送ってくれることはあっても、仕送りはくれない。わたしの諸問題については母に恨みがあるので、父に解決してもらってもただ罪悪感でいっぱいになるだけだ。

 ただ、今になってやさしくなるぐらいなら、母から虐待を受けていた頃のわたしを救ってほしかったと思ってしまう。ぶっ壊れたメンタルも、回り道しすぎた人生も、もう元には戻らない。

 でもこれは恵まれているからこそ言えることだ。

 インターネットを見ている限り、わたしは随分と恵まれているほうで、世の中には両親ともにイカれている家庭がある。この記事を書くきっかけとなったツイートもそうだった。わたしはまだ父親がまともだ。家賃の保証人になってくれるから、住む家には困らないし、破綻した家族経済からも、わたしの余分な学費を捻出してくれる。

 

 たとえ苦しくても、わたしがなんとかなっているのは恵まれているからだ、と自分に言い聞かせるたびに、わたしの恵まれなかった部分についた傷の口が広がる。恵まれる、恵まれない、というのはグラデーションになっていて、明確な線引きがないから、自分より恵まれている人を見ると羨ましさで死にそうになるし、自分より恵まれていない人を見ると自分が恵まれていることを罪だと思ってしまう。苦しむ権利は自分にはないと錯覚してしまう。

 恵まれたひとにも、恵まれなかったひとにも罪はない。誰だって苦しんでいいし楽しんでいい。その人にはその人の痛みがある、ということをわたしはよく人に言うのに、どうして自分にはそれを適応できないのだろうか。