本当に変な人になってしまった

 

 

 かつてわたしは、普通の子になりたかった。普通の子に憧れていた。

 

 「昨日のドラマ観た?」「観た!やばかった!」というクラスメートの会話。給食の時間に流行りの音楽を流す放送委員。いつでもかわいい服を身にまとっているカースト上位の女子。放課後、通信対戦をするために公園に集まる友人のグループ。

 朝ごはん・夕ごはんの時間以外にテレビを見ると怒られた。教育熱心な親は、流行りのCDの代わりに英会話の勉強用CDを聴かせた。模試でいい成績を取ってようやく新しい服を買ってもらえた。ゲームは基本的に禁止だった(漢検DSや脳トレなどの例外は除く)。

 

 もちろん、「普通」のパラメータは人によって違うし、わたしの思い描く「普通」が誰かの「普通」と完全に一致することはない。それでも、やはり「普通」という、平均値や中央値を取って完成する「みんなの当たり前」がある。わたしはずっとそれになりたかった。

 

 

 いつからか、「普通」を諦めるようになった。人間はおそらく宙ぶらりんというのが一番つらい。逆に、「変」を目指しはじめた。流行りのドラマや映画を避けた。インディーズのバンドを聴くようになった。古着を着るようになった。さいわい、ゲームには興味がなかった。

 意外と、「変」な趣味は居心地がよかった。誰のこともわかる必要はないし、誰かにわかられる必要もない。救われたような気がした。

 これを、みんなの輪に”入れない”のではなく”入らない”のだ、ということにした。

 

 みるみるうちに「変」になれた。「変わっとるね」「変子やね」と言われるようになった。

 「そんなことないよ」と言うのもおかしいし(自ら「変」になることを選んだのだから)、「ありがとう」と言うのも気持ち悪いし(自称・変人が痛いことは経験上知っていたから)、どう返せばいいのかわからなかったので、適当に「そうかもしれんなあ」と言ってごまかした。

 

 どんどん「変」を加速させていって、今、本当に変な人になってしまった。

 流行りのドラマや映画を避けた結果、基礎教養すらも持ち合わせていない。インディーズのバンドのライブに来ると、観客の会話に苛立つ。街ですれ違う人が古着を着ていると、同族嫌悪で吐きそうになる。ソシャゲに時間を溶かす人を愚かだと思う。

 そして一番救いようがないのが、わたしと同じのような「変」を抱えている人は案外そこらじゅうにいて、「普通」から見れば「変」であっても、「変」から見れば「普通」でしかないということ。結局、量産された「変」にすぎないということ。

 また宙ぶらりんになってしまった。これでは、宙ぶらりんを再生産しただけではないか。

 

 

 とはいえ、いまさら「普通」に戻ることのできる道のりも見当たらない。

 好きなものは特にないのに、嫌いなものはたくさんある、本当に変な人になってしまった。

 わたしはこのままどこに行くのだろう。