妙な自己肯定感(のようなもの)をくれる街

 

 あと4ヶ月とちょっとで25歳になる。四捨五入すれば30なので実質ほぼアラサーみたいなものだ。煙草を買うと週1ペースで年齢確認をされるのは、顔貌やファッションが幼く見えるからか、挙動や仕草が年齢に追いついていないからか。

 正直、精神的なところは22歳あたりで止まっているので、もうすぐアラサーだという事実が恐ろしくて見て見ぬふりをしている。

 

 それでも生きている限り25歳になる日はやってくる。今日は昼過ぎに起きて、インターネットをして、喫茶店に行って、インターネットをして、読書に集中できずにブログを書いている。こんな感じで適当な1日を無意味に送り続けるだけで、無事に25歳になってしまう。

 言うまでもなく、想像していた25歳とはかけ離れている。

 国立大学を現役ストレートで卒業し、それなりに安定した企業に入社し、忙しいながらにやり甲斐を感じているうちに気づけば3年、そろそろ結婚かな〜などと考えているはずだった。

 一方で現実は、一浪二留Bラン公立芸大生、夜職と飲食のバイトでなんとかクレカ会社からの催促を乗り越え、アンチと信者に囲まれたインターネット・ライフを送っている。

 

 

 京都という学生の街に漂うモラトリアムの空気に見事に流されている。いや、京都のこの空気感がなくともわたしは工芸科から美術科に移って留年していただろうが、それにしても京都という街は若者から焦燥感を奪う。

 なんだかよくわからないけれど生きている人がたくさんいるから、なんだかよくわからないけれど生きていけるような気がしてしまう。

 もちろん飄々と生きているように見える彼らにも苦悩はたくさんあるのだろうけれど、彼らはそういった苦悩を隠すのが上手い。のらりくらりと生きているパーソナリティを演じているのか、はたまた他者に自身のセンシティブな部分を開示するのが苦手なのか、わたしには知りようもないけれど、確実に彼らの存在は次の世代たちがモラトリアムを延長することについて背中を押してくれている。

 

 

 現在は5年生だが、カリキュラムで言えば3年生なので、そろそろ就職活動の時期に差し掛かる。それでもわたしはまだなおモラトリアムを延ばすつもりでいる。

 別にモラトリアムを延ばしたくて修士に進学するつもりなのではない。ただ純粋にまだまだ学生として美術を学びたいこと、もしこの先も美術の世界で生きていくのであれば修士を持っておいた方が何かと役に立つこと、そもそも就活でアピールできるような技術や成果をほとんど持っていないこと(これは至急改善しなければならない問題だ)、などさまざまな理由が重なっている。

 それでも、もしもここが京都ではない、モラトリアムを許さないどこか忙しい街であれば、「学部の卒業が予定より3年延びて、みんなに遅れをとっているから、急いで追いつかなければ」と、慌ててリクルートスーツを着て、ポートフォリオを抱え、夜行バスで全国を飛び回っていただろう。

 

 暇さえあれば鴨川デルタに集い、安い酒を酌み交わしてバカ騒ぎしている大学生集団への気持ち悪さを抱きながらも、結局わたしも京都のモラトリアムに飲み込まれている。

 

 

 モラトリアムを長く過ごしたからには、社会のどこかでそれなりの地位を得て、かつてのモラトリアムに意味づけをしなければならない───とも思わない。

 わたしはわたしとして生きて、最後の最後に己の人生に満足して死ねるのであれば合格。それぐらいの軽い気持ちで生きられる、妙な自己肯定感(のようなもの)をくれる街が京都なのかもしれない。

 まあわたしはこの京都という街に起きるあらゆるエピソードをやたらエモ・美談にしたがる脳内ハッピードラマ厨が大嫌いですが…………

 

 京都市立キショすぎ害悪芸術大学のことは嫌いだし、元は実家から通える国公立大学の中で芸術を専門に学べるという条件だけで選んだ大学なので、京都在住の大学生になることは全くの想定外だったのだけれど、親に内緒でこっそり部屋を契約してドッキリのように実家を飛び出してよかったな、と思う。

 京都という街がくれる妙な自己肯定感のようなものを背負って、明日からもなんとなく生きていくつもりだ。