映画「うみべの女の子」を観た

 

 浅野いにおの漫画が原作の映画「うみべの女の子」を観た。

 ぴえん地雷系女と黒マッシュウルフ女殴りそう男のアベックや、つま先からてっぺんまで古着で固めた個体×2のアベックとのエンカウントを期待していたが、ド平日のド昼間に、しかも京都の新風館というスターバックスの上位互換みたいなビルの地下のシネマで見たために、そういった類の人々は見られなかった。

 

 わたしはどうしようもなく浅野いにおのファンである。自ら積極的に浅野いにおファンを名乗ることは憚られるが、「人生で一番影響を受けた漫画家は?」と聞かれたら「浅野いにおです」と即答するだろう(もちろんそのたびにその場で衣服を剥がれて素っ裸になることよりもさらに上位の恥ずかしさに見舞われるに違いない)。
 彼のほとんどの書籍をコンプリートしている(「素晴らしい世界」と「日曜、午後、六時半。」のみ未入手である)。現在連載中のデッドデッドモンスターズ・デデデデデストラクションも毎回Tシャツ特典付きを買うし、東京で行われていた浅野いにお展にもわざわざ京都から出向いた(残念なことに、のちに大阪に巡回した)。

 

 そんな中で、「うみべの女の子」はわたしにとってとりわけ特別な作品だ。なぜなら、いちばんはじめに手にした浅野いにおの書籍がこの作品だからである。
 と言っても、これは半ば事故のような出会いで、浅野いにおを読もうとして浅野いにおを読んだわけではない。
 なんとなく美術に憧れていた中学2年生のわたしは、表紙の水彩画に一目惚れして、なけなしのお小遣いをはたいて本屋で買った。

 

 表紙と中身のギャップ(もはやギャップと形容するのも許しがたいほどの乖離)に気づいた時にはもう自分の部屋にいた。しかもバカなことに、全2巻ということを知らずに、第2巻だけを買ってきたのだった。

 一通り読んでも何もわからなかった。そもそも、その半年前までショタコン腐女子を拗らせていたので、女と男がやるらしいセックスというものすらもよく知らなかった。当時は従順な14歳だったので、アフィリエイトだらけのブログにたどり着けば無断転載されたR-18の同人誌が読めるということも知らなかった。

 

 話を戻す。そんな特別な作品が映画化されたのだから、わたしは見に行かなければならなかった。もはや義務だ。ワクチンの副作用でダウンしていた翌日に、左腕はまだ上がらないままではあったが予定通り見に行った。

 以下、ネタバレが続くので、あなたがこれから話の内容を知らない上に観に行きたいというタイプの人であれば、この記事のここから先は読み進めないことをおすすめする。あなたが話の内容は知っているが観に行くかどうか迷っているというのであれば(そのような人物は存在するのか?)は、読んでも読まなくてもいいだろう。あなたがもうすでに観に行ったというのであれば、読んでみてもいいかもしれない。読む価値があるだろうと予想できるのは、もうすでに観に行った上で、原作漫画のセリフを暗記しているほどに熱狂的なファンだ。

 ちなみに、わたしは原作漫画のセリフをほとんど暗記しているファンである。

 

 もっと言うと、磯辺恵介の厄介オタクおばさんである(おばさんというのは、世間一般の評価軸ではなく、磯辺恵介の視点からの評価である)。

 わたしは磯辺恵介のセリフをほとんど暗記している。もはや彼との出会いから10年も経っているので、好きだから暗記したのか、暗記したから好きになったのか、もうわからなくなっているが、一つだけ言えるのは、わたしは、磯辺恵介の生活を支えるママ活おばさんになりたいということだ。そのためならば何歳まででも夜職に従事できる。いや、彼の家は裕福なので、そんな存在は全く必要ないわけが……。

 映画「うみべの女の子」は磯辺恵介のセリフをあまりにもカットしすぎで、個人的に不完全燃焼であった。わたしは普段から映画も映画評論もあまり観ないので、このように原作と比べた評価が映画評論として正しいのかはわからない。

 ただ、磯辺恵介の人格を特によく説明するであろうセリフが2つもカットされていたので、磯辺恵介の厄介オタクおばさんとしては、「磯辺のかわいさはこんなもんじゃないよ〜〜〜(泣)」とがっかりせざるを得なかった。

 原作の磯辺恵介を愛するがあまりに、期待値が高すぎたのだ。映画は何も悪くない。期待しすぎたわたしが悪い。漫画と映画では媒体が違うので、原作と翻案が違って当然である。わたしが悪いのだ。

 

 

 一つ目は、「助けて。」。

 自殺した兄が運営していたブログ(映画ではTwitterになっている)を、兄の自殺後も磯辺恵介は兄のふりをして更新していたのだが、勘の鋭いファンが「くだらない記事が増えたり、露骨にアフィリエイトが増えたり、ブログの劣化が目につきます。」というコメントを残すシーンだ。

 彼はここで、兄の自殺の理由に始まり、兄になりすましてブログを更新していた経緯を文字に起こす。
 そこでは、兄がいじめを受けて自殺したこと、弟(磯辺恵介)の誕生日に自殺したことに何かの意味が込められていたのではないかと類推していること、ヘルプサインに気づけずに救えなかった兄の幻覚を見るほどにずっと呪われていること、インターネット上の兄の人格が消えてしまうということは兄の存在を孤独に抱えて生きていくことを意味するという事実が怖くてブログを更新し続けていること、そういった生活に限界が来ていることなどを独白する。

 彼は、その独白を「助けて。」で締めくくり、しばらくして我に返り、全て削除し、「ただの暇つぶしですよw」と返信するが、わたしはこの「助けて。」に不器用な磯辺恵介の魂の悲痛な叫びが込められていると考察している。

 

 磯辺恵介は、助かりたいのだ。何もかもから。
 救えなかった兄の呪いからも、家族ごっこみたいな家族からも、無自覚な悪意にまみれた人間だらけの社会(学校)からも、積極的に幸せを求めて歩き続けるエネルギーの残っていない鬱屈とした人生からも、全てを自覚していて何一つ行動に移せない自分からも。
 インターネット上で、やっと初めて他人に言えそうになった「助けて。」も、どうせ他人(しかもインターネットの向こう側のよく知らない人物)がどう振る舞おうが自分の存在は全く助からないということをわかっているので、削除してしまう。

 磯辺恵介は、現実にもインターネットにも生きられない、宙ぶらりんの人生から助かりたい。自分が動かなければ助からないのはわかっていても、助かるための行動を起こして摩耗するのは助からないことよりももっと苦しい。

 

 そんな文脈上にある(とわたしが勝手に拗らせた解釈をしている)「助けて。」は、映画ではカットされた。
 このシーンは、「助けて。」の直前まで描写されているので、尺の都合上カットしたというわけでもなさそうなのだが(原作漫画のコマではモニターに文字が映されているだけ)、どういう経緯でカットされてしまったのか……。
 あまりにも磯辺恵介の人格を薄暗く説明しすぎると、話がまとまりづらいからだろうか?
 しかし、彼はのちにとあるきっかけで人が変わったように前を向くので、そういった新しい人格との対比を考えると、やはりあったほうがよかったのではないかと思ってしまう。

 

 

 もう一つは、「勝った」「勝ったよ」「これでも俺けっこうがんばったんだ」「役立たずでごめん」のシーン(セリフではなくシーンまるごとがカットされている)。

 

 兄をいじめていたグループの現在地をネトストで特定し、襲いかかってボコボコにし復讐するシーン。これは上記とも少し関わりがある。いわゆる、磯辺がこれまでの惰性の人生にケリをつけて、方向転換させるためにやっと行動を起こした、決定的瞬間だ。

 

 おそらく、磯辺恵介と兄はいわゆる仲良し兄弟というほどではなかったのだろう。原作でも、「気の合う友人のようでした」という文字上の描写しかなく、その少し手前に「(兄は)優しすぎたのだと思います」と他人事のように書かれているのみだ。敵討ちと言い切るほどには少し早とちりな気がする。
 「気の合う友人のよう」程度だったために、磯辺兄は弟に自殺を話せなかったのかもしれない。だからこそ、磯辺恵介はもっと自分が生前の兄に寄り添ってあげていれば、という罪悪感に押し潰されそうになっているのではないかと解釈している。

 

 先述のブログコメント事件から、磯辺恵介は何度か自殺をほのめかす(ex.「来月の今頃にはとっくに死んでるんで」)。

 しかし、自殺はしない。なぜ自殺しなかったのかは読者の想像に任せられるが、まあ、自殺ってそう簡単にできるものではない。「生きるのが嫌」「早く楽になりたい」程度の厭世観ではなかなか自殺に踏み込めない。強く死を望んでやっと自殺企図に走れるかどうかで、そしてその先で自殺行為に踏み切ると肉体の生存本能がまた邪魔をする。
 人は死ぬときに二度死を実感するのではないだろうか。そして、それはとても怖い。言葉では説明できない、生理的な怖さがある。それが精神的な生存本能なのかもしれない。


 磯辺恵介が何を考えて自殺ではなく兄をいじめた人間(=自殺に追い込んだ”殺人犯”)たちに復讐することを選んだかはわからないが、ここまでほとんど惰性で生きてきたように描写されている磯辺恵介が、やっと前に進もうとした事件が、この復讐だったわけだ。

 復讐のシーン自体は映画にも描写されるのだが、「勝った」〜「役立たずでごめん」はカットされている。ただ事件を起こしただけ、というところに留まっている。
 それでは何も意味がない。
 ここで磯辺恵介は成功体験を手に入れて、兄の呪いを克服し、前を向いて、うみべの女の子に出会い、髪を切って、うみべの女の子と同じ大学に行くために受験勉強に励むことになる。

 

 この復讐を機に、磯辺恵介の人生は好転していくように見られる(同時に、小梅の人生は一時停止する)。
 好転することを伝えるためには、「勝ったよ」があってほしかった。あの磯辺恵介が生きていくことを選ぶのだから。

 

 

 原作との相違点は挙げ出したらキリがないので、このあたりにしておく。特に解釈に差し障るのではないかと感じる2点を挙げた。オタク特有の早口で4000字も書いてしまった。

 結論としては、磯辺恵介の拗らせ厄介オタクは観てもあまり楽しめないだろう、ということだ。おそらく不完全燃焼に終わる。俳優もかなり演技をがんばってくれていたのだが、わたしとしてはもう少し冴えない少年でいてほしかった(想像以上にキラキラしていた)。
 まあ、宣材などで映えることを考慮すると、どうしても主要人物にはイケメンを選ぶしかないのだが。

 

 こんなところで終わりにしよう。これを読んであえて観に行ってみるもよし、逆張りオタクを貫いて会期が終わるのを待ち、ネットフリックスなどのサブスクでの配信を待つのもよし。
 ひとつ言えることは、浅野いにおは偉大だということだ。
 彼ほどにメンヘラを熱狂させる漫画家はそうそういないだろう。押見修造なども並んで挙げられることも多いが、わたしは浅野いにおのポップさが好きだ。
 浅野いにお先生、ありがとう。

 

 もう一度言うが、わたしは、磯辺恵介の生活を支えるママ活おばさんになりたい。