最近はいちだんと死の気配がわたしに近づいているような気がする。毎日ではないけれど、確実にそういう日のスパンが短くなっている。
いよいよ年明けに始まった躁転ハッピーライフもおしまいなのだろうか。
誰かが死ぬ夢を見ることが増えたし、希死念慮にさいなまれて座椅子に崩れるような姿勢で座ったまま動けないでいる時間が長くなった。死んだ人の書いた本ばかり読んでいる。
わたしの希死念慮には3パターンある。
ひとつ目はとても軽いもので、何もやる気が起きなくて、でもしなければいけないことがたくさんあって、ああ今死んだらすべてから解放されるのになあと願うもの。これはだいたい自分の先延ばし癖とどうにもならない拗れた人生に由来するもので、起動に時間とエネルギーのかかる抑鬱タイプのADHDの素質を持って変な家庭に生まれてきたことを呪いながら、菓子パンを過食するか、その日はもう諦めて寝るかのどちらかをすれば治る。
2つ目はもっと漠然とした、疲労感に似た絶望のようなもの。己の人生を背負って明日も明後日もずっと、寿命が来るまで生きなければならないのに、それを乗り越えるほどの精神的エネルギーがもう残っていないという現状を自覚したときに発生するもの。これは一生ついて回ってくるのだろうと思う。死なない限り。
3つ目がいちばん厄介で、死に希望を見出しているタイプ。死は救済というフレーズはここに属するのではないだろうか。死んだことがないので、死の世界についての夢は見放題なのだ。わたしは前世も来世も信じていないし、死後の世界なんてあるわけがないとは思うが、それにしても死というまぼろしの概念は夢を含みすぎてはいないか。死んだ瞬間に達成される死という目標。さすがに美しすぎる。
希死念慮が自殺願望に変わるのは往々にして3つ目のパターンの時で、実際にいちど自殺企図に走った時(結局は未遂の未遂に終わった)もこんな心理状態だった。諦めでも絶望でもなく、ただ純粋に死を望んでいる。
生きるには生きたい理由が少なすぎるし、死ぬには死にたい理由が多すぎる。
それでも生きていかなければならない。わたしは最後のところでエゴイスティックな方向に振り切れない。もしかしたら、痛みや苦しみを伴う自殺への恐怖を、わたしの生が続くことを願っている人へ責任転嫁して、逃げているだけなのかもしれないけれど。死にたいはずなのに、おかしいな。
本を読んでも目が滑ってなかなか入り込めない。昨日は京都市京セラ美術館で建築の展示を見て、ミュージアムショップで8冊も本を買った。赤瀬川原平氏の著作を数冊手に入れた。先日、キャバクラ時代のお客さんに買ってもらった15冊の本もまだ3冊しか読み終えていない。アート、天皇制、構造主義、短歌、いろいろある。
積読とは、その先も生きていく未来を前提にたくさんの本を買うから起きる現象だ。
結局、生きる気マンマンなのだ。わたしは。
死ぬつもりなんてはじめからないくせに、たいして現実でやり遂げたこともないくせに、現実にはもう飽き飽きだと死を夢見て、宙ぶらりんに生きている。
どうせ死なないならしっかり生きろよ。
どうも調子がおかしい。洗濯物を干さなければならない。どうせ今すぐマンションの屋上に走ってのぼって行ったとて飛び降りられないのだから、わたしは明日も生きていくし、明日もバイトがあるから、早く干さないと乾かないし、困るのは自分だ。
早く生の向こう側に行きたい。なんで死んだらあかんのやろね。宇宙レベルで見ればひとつの個体が死んだところで何の影響もないのにね。
今日も疲れたな。洗濯物を干して煙草を吸って本を読んで寝る。おやすみ。