三年経った今でも

 

 

 フォロワーからの要望があったので、三年ほど前に共依存していて別れた元彼についての話をします。

 その元彼本人が見ている可能性がなきにしもあらずというのが怖いですが、気にせず思うがままに書き連ねたいと思います。

 

 

 四年ほど前、わたしは京都市立芸術大学に入学して1ヶ月であの大学のジメジメした雰囲気に絶望し、5月末にTinderを始めました。

 適当に知り合った男の子と適当に喫茶店に行ったり古着屋を巡ったりしながら、マッチングアプリもこんなもんか〜と女売り手市場をそこそこに楽しんでいました。大学は辞めることを本気で検討するほど全く楽しくなかったので、いい暇つぶしでした。

 

 彼とマッチしたのはおそらく7月ごろだったのではないかと思います。

 今となっては彼のプロフィールがどういうものだったかは思い出せませんが、たしかクリープハイプ浅野いにおが好きだということがわかるもので(画像が愛子ちゃんのTシャツだったような気がします)、名前は太宰治から取った「Osamu」さんでした。

 三、四年前のサブカル男女諸君は誰もがこういう時期を通ったんじゃないでしょうか……。今も存在するのでしょうか。

 

 

 わたしが京都の大学生ということで、彼は大阪の某私立大の学生で、京都に来てくれると言うので夕方から鴨川でビールを飲みました。

 わたしが一浪の一年生、彼はストレートのひとつ歳上で三年生でした。

 彼は絵画教室に通っていた経験もあり、大学では美術部に属していたことから、芸術大学美術学部に通うわたしの話をおもしろそうに聞いてくれました。といってもわたしは全くキャンパスライフをエンジョイしていないので、受験時代などの話をしていたんじゃないかと思います(あんまり覚えていません)。わたしは大学は嫌いですが美術は好きなので、アートに対する熱意はそこそこに伝わっていたと思います。

 それから毎日ひっきりなしにラインをしたり通話をしたりして、どんどん親睦を深めていきました。

 

 ある日、いつものように電話をしていて、突然「好きな人っていないの?」と聞かれました。もうすでにわたしは彼のことを好きだったので、「いるよ」と答えました。このあたりの記憶がもうぼけてしまっているのが悔しいですが(絶対めちゃくちゃときめいてたと思う)、両思いであることがわかりました。

 「電話で決めるのはなんか嫌だから今度会ったときに直接告白させてほしい」と言われたのは覚えています。これは結構よかったので、フォロワーのみなさまはぜひ使ってくださいね🎶

 

 

 お互いにお金がないカップルだったのですが、どれぐらいお金がなかったかというと、大阪と京都の行き来すら痛手になるレベルでした。わたしも彼も当時は実家暮らしで、二人とも機能不全家庭から出られずにいました。

 会えたとしても月に一、二回で、どちらも親の監視が厳しかったので、制作(彼は研究)に忙しいので大学に泊まるという嘘をついてラブホテルに一泊する、というお金のかかるデートが定番でした。

 時間的・金銭的に余裕のある月は他にもカラオケや、電車旅や、美術館などにも行きましたが、とにかく会える頻度が少ないので、わたしは解散する前に次に会える日を決めないと泣くという面倒くさい女ムーブをかましていました。

 

 ところで、自己肯定感と恋愛偏差値の低い女は、自分を肯定してくれるスペックの高い男が現れるとすぐに依存します。わたしはすさまじく彼に依存していました。彼に会えない日々は、彼に会える日を繋ぎ止めるためだけに生きていました(本気で)。人として生きるエネルギーのほとんどを彼に割いていたと思います。

 当時はまだ精神科に通っていなかったので、鬱っぽい状態が続くこともあったのですが、彼は「君が人生が無理になって死んじゃう時には僕も死ぬよ」と言ってくれていました。

 今となってもなぜ彼がわたしを好いていたのかはわかりませんが、立派に共依存をしていました。彼もまた「君を幸せにできるのは僕だけだし、僕を幸せにできるのも君だけだと思う。共依存だね」と言っていました。

 

 上記の彼の言葉は当時のLINEのスクショから引用しています。元彼の写真など全て消せないタイプの人間です。全く未練も何もないのですが……。

 

 

 毎日しょうもない自撮りを送り合って、秋にはわたしの大学の文化祭に足を運んで作品を見にきてくれたり、年末には2泊3日で福岡旅行に行ったり、ふらっと入ったバルでお店の人からのサプライズで半年祝いをされたり、いろいろなことをして過ごしました。そのたびにわたしは彼を好きな気持ちをアップデートさせていました。

 

 

 付き合って半年とちょっとが過ぎたあたりで、わたしの躁鬱の鬱が悪化してきました。まだこの頃は病院に通っていなかったので、躁鬱の波がひどかったです。

 わたしがしきりに言う「死にたい」にも彼は疲れてきたようでした。彼は大切な友人を過去に自殺で亡くした経験があることから、「死にたい」という言葉に敏感でもありました。

 また、わたしはその鬱に入る直前に実家を出ることに成功していて(躁転してアホほど働いて引っ越した反動で鬱転したとも言えます)、彼がときどき漏らす家庭の愚痴についても共感してあげることができませんでした。

 

 ある日、いつものようにわたしが死にたい死にたいと落ち込んでいると、「じゃあ僕にどうしろって言うん?」と電話越しに泣かせてしまいました。「どうせ死んじゃう人となんか初めから付き合わなければよかった」という趣旨のことを彼が言いました。

 

 これはまずいと思い精神科に通うことを決めました。思春期頃からずっと、3ヶ月〜半年のサイクルでエネルギーが上下するので薄々勘づいてはいましたが、やはり双極性障害2型ということで、炭酸リチウムを処方されました(しかしこの病院にはのちに行かなくなります)。

 しかし、もうこの頃にはきっと手遅れだったのだと思います。だんだんすれ違うようになってきました。

 

 

 わたしの誕生日が6月2日で、彼の誕生日とは3日違いだったので、とりあえずその直近の土日で二人まとめてお祝いをしようという話を5月の頭にしていたのですが、5月の下旬になって彼から「一人暮らしの入居日がその日になったから夜は泊まれないと思う」という連絡が来ました。

 すれ違っているというか、確実に彼の中でのわたしの優先順位が下がっていました。この頃はもう彼を好きだったというよりも、自分を大切にしてくれていた過去の彼というまぼろしに執着していたのだと思います。

 

 もう先は長くないだろうなという確信を得て、あとは振られるのを待つ状態でした。

 わたしはプライドが高いので、悪者になりたくないという気持ちが強く、自分からは別れたいとは言えませんでした。どうせ別れてしまうのであれば向こうの気持ちが固まってからにしようとも思っていました。

 

 

 それから一ヶ月ほどで別れました。わたしは彼氏の通う某大学の駅前のガストに出向いて、別れ話をしながら大泣きしました。別れるのはわかっていたのにね。

 彼からの最後のLINEでは「期待を裏切って、救えなくてごめんなさい」と言われました。

 

 

 ざっと振り返るとこんな感じです。三年も前であること、苦い思い出であることから記憶がかなりぼやけていますが、簡単にまとめるとこういう感じの約一年でした。

 メンヘラ(特に精神障害者)はできれば恋愛をしない方がよいです。メンヘラが相手に与える負のエネルギーは何事でも相殺できないぐらいに重くて鬱陶しいので。でもメンヘラって愛に飢えてるパターンが多いので厄介ですよね。

 共依存でも二人が幸せならいいよね、とは思いますが、そもそも世界は二人を中心に回っているわけではないので、よほどの幸運が続かない限りは二人のうちのどちらかが先に世界に魂を持って行かれて破綻するのです。

 

 彼に依存していた反省から、わたしは「ひとりだけをターゲットにするから依存して破綻するんやし、依存先は分散させた方がええなあ」という考え方に走り、浮気ばかりをするカス女になるのですが、これはまた別のお話で。

 

 

 彼に対する恨みのような念は三年経った今でも多少残っていますが、彼のおかげで育った人格もあるのであまり悪くは思っていません。

 彼のおかげで他者に依存することがよくないことだということがわかりました。己を救済するのは己のみだという今のわたしの諦念のようなモットーは彼がいなければあり得ませんでした。

 まあわたしは驚異のネトスト根性があるので、彼が今どうやら恋人と幸せそうにやっているらしいということは知っています。どうかお幸せに。できればたまに、京都に用事があった時にでも、わたしを見捨てたことを思い出してくださいね。