もう人生がどうなってもいい

 

 来たる6/2で25歳になる。20代前半が終わり、四捨五入すると30のアラサーになるので、いわゆる"青春"と呼ばれる時期にはここで区切りがつくことになる。

 

 

 質問箱にリクエストが来たので、「わたしの青春時代」を振り返ろうと思う。

 青春時代にもさまざまな定義があるが、だいたいは中学入学〜大学卒業を指すだろう。わたしは大学の卒業が3年遅れているので、青春時代が約12年あり、人生の半分が青春時代だったということになるが、お察しの通り、素晴らしくも美しい青春時代ではなかった。

 以下、12年間の振り返りとなる。

 

 

 

 中学生時代

 とにかく暗黒時代だった。

 学歴コンプレックスエリート志向の母に乗せられて中学受験、第一・第二志望に落ち、行きたくもなかった私立中高一貫校に進学、そしてそこではいじめを受ける。

 

 わたしのメンヘラが目覚めたのはおそらく中学受験時代、つまり小学5~6年生の頃だ。自傷行為という概念を知らずとも、抜毛癖と皮膚むしり症でてっぺんハゲを作っていた。

 中学生になってリストカットというカルチャーと出会い、授業中にもハサミで手首を切りまくっていた記憶がある。ハサミの鈍い切れ味がどうにも快感だった。

 

 希死念慮が明確になったのもこの頃である。当時からTwitterに裏垢を作っており、家にも学校にも、世界中のどこにも安心できる居場所がないことの苦しみを吐露していた。

 この頃のTwitterは「死にたい」とツイートしても垢BANされることはなかったのに……。

 

 お小遣いも少なく、しかもその少ないお小遣いもADHD特有の忘れ物・失くし物の補填にほとんど消えていくので、容姿を磨く余裕はなかった。誰がどう見ても腐女子とわかる見た目だった。そしてちゃんと腐女子だった。イナズマイレブンのおかげでショタコンに目覚めた。

 家にも学校にも居場所がなく、制カバンの底にひっそり忍ばせたDS Liteで、通学に利用するバスの往復4時間でこっそりプレイするイナズマイレブンに救われていた。日野晃とレベルファイブには今でも感謝している。

 

 中高一貫校だったが、皮肉にも家庭の経済状況に余裕がないことが幸いして、地元の高校を再受験することでいじめから抜け出すことができた。同級生の進学先である高等部よりもよっぽど偏差値の高い高校に合格することで見返してやろうと、地元の公民館の自習スペースで猛勉強した。

 第一志望は受けさせてもらえなかったが、無事に合格した第二志望もまあ高等部よりは偏差値が高かったのでよしとした。

 

 

 

 高校時代

 

 本当は軽音部のある高校に行ってキーボードを弾きたかったのだが、「あんたは中学で私立に行ったんやから高校と大学は国公立や」という、私立中学に押し込んだくせに何故かその責任をわたしに負わせる母の理不尽な要求に応えなければならず、軽音部のない地味な自称進学校に入学した。軽音部がないので、美術部に入ろうと思っていた。

 

 腐女子を卒業して、サブカルクソ女への路線を走り出していたわたしは、三戸なつめに憧れて前髪をオン眉ぱっつんにして、ヘッドホンでインディーズのバンドを聴いていた。それを剣道部の女子の先輩に気に入られ、流れるままに剣道部にマネージャーとして入ることになった。

 

 これが間違いだった。

 

 一緒にマネージャーをすると入部してきた女がもうトンデモ爆弾級にヤバすぎる女で、お腹が空いたという理由で不機嫌になり話しかけても無視してきたり、わたしが積極的に剣道に詳しくなろうとすることに「マネージャーが競技に出しゃばるのは恥ずかしい」という謎理論で足を引っ張ってくるような女だった。

 

 わたしはその女の相手をすることでとにかく精神を磨耗した。常にご機嫌を伺って、先回りして物事を済ませるというのは、母の生み出す機能不全家庭でやってきたことそのものだった。

 情緒のジェットコースターが激しくなり、毎晩Twitterで病み散らかし、一時期落ち着いていた抜毛症が復活した。

 

 

 突然、初めての彼氏ができた。中学の同級生だった。元はオタク友達だったが、スマホXperia初音ミクのコラボの痛いアレだったのが非常に恥ずかしかったことを覚えている。

 自分から好きになった人ではなかったので、1年ほど付き合ったが、わたしがあっさり自分の高校のクラスメートに惚れて別れた。お金のない高校生に他校生との交際は難しすぎた。

 

 

 なんとか部活を引退までやりきり、受験期に突入する。

 部活を引退し、受験勉強しかやることがなくなるとなると、嫌でも自分と向き合う時間が増える。

 わたしの中途半端なエリート街道の人生は母の学歴コンプレックスを満たすためだけにあったことに気づく。暴力やいじめに耐えてきたわたしの18年間は、すべて母のものだった。

 母から逃げるために、浪人して芸大に行くことを決める。学歴レースから降りたかったのだ。

 

 この頃のメンタルヘルスは最悪で、学校に行けなくなっていた。微妙に知り合い程度の他人がわんさかいる空間に行くと被害妄想がついてまわる。

 世間体を気にする母には毎朝家を追い出されるので、逆方面の電車に乗ってJRの大回り乗車をして、琵琶湖を眺めたりして1日を潰していた。アクティブな不登校だった。

 情緒不安定な気質が、立派な躁鬱へと変化した。

 

 そして何も決まっていないことだけが決まったまま高校を卒業した。

 と言っても京都市立芸大には一浪すれば受かる自信があったので、特に不安はなかった。バイトで予備校代をまかなうと宣言し、母からの口出しをすべて無視した。

 

 

 

 浪人時代

 

 わたしの、わたしによる、わたしのための人生が始まる。

 ADHDムーブをやらかしまくりパワハラを受け地元のミスドを退職し、駅のキヨスクで早朝働き、昼は予備校、夜はセンター試験の勉強という日々を過ごした。素晴らしい躁転である。

 

 ミスドパワハラを受けていた頃に初めて精神科を受診した。ADHDをなんとかせねばならんと駆け込み、コンサータを処方されたが、副作用があまりにもひどくトイレから出られなくなったので、無能として生きていくことを受け入れた。

 

 夏前に予備校を変えたところで、メンヘラ恋愛脳が開花する。予備校の同期の男に惚れ込んだ。しかし彼女にはしてもらえず、ラブホ代を負担する都合のいい女になった。モラハラ気質に振り回され、依存してしがみついて、どんどん立場が低くなっていった。リストカットが復活した。

 ある日突然、恋が憎悪に変わり、絶対にこいつよりもデッサンが上手くなって合格してやるというやる気に満ちた。

 

 メキメキと上達し、センター試験でも83%を得点して、見事にわたしだけ合格した。

 芸大受験浪人に猛反対し、ボロカス言ってきた母は「日本で一番歴史のある芸大に一浪で合格するなんてさすがうちの子やわ」とご満悦だった。学費さえ実家が出してくれるのであればもうどうでもよかった。

 

 春休みには当然のように鬱転し、ベッドの上で虚無になっているうちに1ヶ月が過ぎた。ほとんど記憶がない。自室のアトリエ化をしようと計画していたが、ほとんど寝たきりだったので頓挫したことだけは覚えている。

 

 

 

 大学入学〜現在

 

 晴れて京都市立芸大に入学、躁転してファッション同好会を立ち上げる。キラキラ集団を率いる、目立つ新入生だった。

 

 しかし同時に学生の男女比に絶望して、当時まだ現在ほど流行ってはいなかったTinderに登録する。ブスを理由にドタキャンされたり、脳みそオチンポの痛い男からのメッセージをかわしたりしながら、初めて自分から好きになった人と付き合った。

 相手もメンヘラだったので、共依存を1年近くやった。しかしわたしが見事に鬱転したタイミングで見限られて別れた。

 鬱転する前に死ぬほどバイトをしてお金を貯めて実家を出た。というかこの躁転のせいで鬱転したと思う。今度は京都の精神科に通い始めた。双極性障害の診断が降りて、服薬を始めた。

 

 共依存男に振られ、男の傷は男で埋める!と別れた翌日にTinderを再インストールし、とにかくマンコパワーを駆使して心の隙間を埋めた。ここで、今でも付き合いのあるマブい男友達が何人かできた。

 夜職はこのあたりで始めた。インキャでも働けそうな夜職ということでメイドキャバクラを選んだ。メイクやファンションはサブカルクソ女から少し抜け出した。オタク垢抜け選手権の始まりである。

 

 大学は休学した。鬱転してぶち壊した人間関係のまま過ごすことに耐えられそうになかったこと、そもそも工芸という分野が自分に向いていなかったこと、美術科への転科試験まで1年待たなければならないことなどが理由だった。2年の留年が決まった。

 

 休学中にマンコパワーを駆使しているうちに、音楽の趣味が合いすぎる男と付き合うことになった。いろいろなバンドのライブに行った。しかしわたしはマンコパワームーブをやめなかった。前回の恋愛で、依存先がひとつだから破綻するのだと、依存先が複数あれば破綻は避けられると変な学習をしていたからだ。

 当然、浮気だと糾弾される。束縛がどんどんひどくなっていく。息苦しくなって別れた。

 

 またTinderをインストールする。メンヘラを二連発で引いてうまくいかなかったので、次は健常者と付き合おうと目論んだ。すぐに新しい彼氏ができた。

 1年半ほど付き合ったが、コロナ禍ということもありあまり会うことができず、価値観の差からどんどんすれ違い、最終的にはメンヘラ性を罵倒されて別れた。理解のない彼くんどころか、理解を放棄した彼くんだった。

 

 

 メンヘラとも上手くいかず、健常者とも上手くいかず、ほとんど絶望していた。Tinderも市民権を得てどんどんオワコン化し、女だらけの芸大と夜職の往復生活で出会いもなく、このままメンヘラババアとして孤独に死んでいくのかと怯えた。

 

 

 ある日、メンヘラのフォロワーの男と会うことになり、めちゃくちゃ仲良くなって、会って2回目で付き合うことになった。わたしは孤独に怯えすぎてメサコンに走り、このメンヘラを絶対に救ってやるぞという気持ちだった。

 しかしこのフォロワーは認知の歪みがひどく、被害妄想癖があり、ことあるごとに浮気を疑われた。スマホ指紋認証を寝ている間に解除されてLINEを勝手に見られたり、先日noteに書いたレイプの件でボコボコにセカンドレイプを受けたりしていたが、お互いに将来を考えていたので全て許していた。

 しかし彼は一向に救われようとしなかった。認知の歪みを指摘すると「僕はこういう人間なので」と開き直り、しかしわたしには変わることを求めてくるので、メサコンにも限界が来た。

 

 

 そして先日noteに書いた通り、別れた日に彼が自殺未遂をして、いまだに連絡が取れない状況だ。2年ほど軽躁で安定していたが、どうもこのあたりからまた不安定になっている。

 

 中途覚醒で目覚めた瞬間に、また新しい1日が始まることに絶望し、天井を見上げて虚無を見つめる。眠れないので、煙草を吸うために喫茶店に行ってTwitterを見る。救われるために短歌をつくる。帰宅して睡眠の続きをする。起床してまた絶望する。なんとか身体を縦にしてバイトに行く。帰宅して疲れて寝る。こんな感じの毎日だ。

 

 このように精神が不安定では大学院に行ったとてまた休学などを繰り返して苦しみそうなので、大学院進学は諦めた。今は大学を卒業するために精神をなんとか安定に近づけるのに精一杯で、就活を始めるエネルギーもない。春からはきっと無職になる。

 

 

 さまざまな事情で現時点ではあまり詳しいことは書けないが、現在もまた恋愛で脳をバグらせてなんとか生きている。もうこの人生は恋愛の脳内麻薬でなんとかごまかさないと生きられない。苦しすぎる。

 しかしバグっているうちは何にも代えがたく幸せなのだ。愚かな自分を忘れられる。

 この恋愛が最後になることを願っている。もうマンコパワーで得られるものに興味はない。いい加減に愛を全うして、愛のために生きて、愛のために死んでいきたい。

 この人のためならばもう人生がどうなってもいいと覚悟を決めているので、どうか、どうか……(?)

 

 

 

 以上が、わたしの青春時代の振り返りだ。

 とにかく一言でまとめれば「メンヘラ」に尽きるのが悔しい。紆余曲折ある青春だったが、どこにでもいるメンヘラと精神性は何も変わらない、没個性的メンヘラのテンプレそのものだ。

 機能不全家庭に生まれ育ち、中学受験からエリート街道に乗せられていたのに、6年かけて芸大を卒業し、おそらく無職になる人生。精神障害発達障害とメンヘラ恋愛脳。何重苦なんですか(泣)

 まあでも、わたしは救済されることを諦めないので……。やはり自己救済しかない。救われないまま死んでいくのは、これまでの苦しみが報われなさすぎるので、絶対に生き抜いて救済されてやる。どうぞよろしゅう。