自我を抑圧されて身体だけ大きくなった大人

 

 

 卒業制作の進捗が悪い。最近の生活といえば、日払い労働で稼いだお金を、苦しみをごまかすかのようにお酒と煙草に溶かし、残りの時間は睡眠に耽り、現実の諸問題から逃げている。

 

 あんなにも芸術大学に憧れていたのに、今となっては芸術活動に向き合うことを心身が拒否している。

 

 こんなはずではなかった。わたしの人生はすべてこの一言に尽きる。

 

 

 

 わたしのTwitternoteはてなブログの読者のほとんどは知っているだろうが、わたしは学歴コンプレックスのスパルタ教育母と、無関心の父のもとに育っている。

 

 芸術大学を志したのは、高校三年生の夏。国公立信仰の母による洗脳が解けて、自分の人生を生きていこうと決めた第一歩だった。

 

 

 

 昔から絵を描くのが好きだった。

 

 小学生の頃は休み時間にずっと漫画を描いていて、ポケモンのオリジナル漫画を描いてはクラスメートの男女から囲まれていた。夏休みの自由制作には原稿用紙にトーンを貼った本格的な創作漫画を提出したし、将来の夢はもちろん漫画家だった。

 

 とはいえ絵を描けるのは学校の休み時間だけで、家に帰ればスパルタ母が待っていて、勉強以外のこと(例えばテレビを見る、ゲームで遊ぶ、漫画を読むなど)をしているのが見つかるとヒステリックに殴られた。

 

 幼少期のわたしにとって、絵を描くことは勉強ばかりの日々の中でほとんど唯一と言ってもいいほどの趣味で、逃げ道で、救いだった。

 

 

 

 中学生の頃は、授業の板書もせずにノートにくだらない二次創作を描いていた。高校生の頃は、体育祭の団旗や吹奏楽部の定期演奏会のポスターのイラストを依頼されて描いていた。

 

 勉強という絶対の取り柄を除いたわたしには絵しかないと信じ込んでいた。

 

 だから、芸術大学に行こうと思った。

 

 

 

 母と揉めて浪人することになったが、結果として、絵を描くのが好きだという気持ちだけでは受験を乗り切れなかった。

 

 受験美術という目と手の訓練を介して、わたしは絵を描くのが嫌いになりかけていた。自分の手癖をどうしても好きになれなくて、毎日半泣きで絵の具をペタペタ塗っていた。

 

 幸いなことに、立体という受験科目とは相性が悪くなかった。持ち前の手先の不器用で工作は苦手だが、自分の作る立体作品は好きだった。

 

 

 

 晴れて京都市立芸術大学美術学部工芸科に入学した。

 

 しかし、合格の喜びも束の間だった。

 

 当たり前のことだが、芸術大学に入れば絵を描かされる。総合基礎では木のデッサンを描く課題が出て、工芸基礎では和紙に染料で絵を描く課題が出た。

 

 それとほぼ同時に、躁鬱を拗らせて、大学に行くことが難しくなった。

 

 

 

 留年をすることになるが、構想設計専攻という、いわば現代アート周辺を学ぶ専攻に転科することを選んだ。

 

 さすがに留年分の学費は自分で払うべきだろうとキャバクラでバイトを始めた(母から逃げるために一人暮らしを始めたが、実家からの支援が少なく生活が厳しいというのも理由にあった)。

 

 今思えば、これが破綻への道のりの第一歩だった。より一層、お金に執着するようになった。

 

 

 

 しばらくしてコロナ禍に突入した。不登校でも単位が取れるシステムになって、なんとか卒業に必要な単位を揃えた。新型コロナウイルスの流行で下克上を果たした。

 

 大学に行かない代わりに、美学や芸術論、哲学思想などの本をよく読むようになった。お気に入りの喫茶店で煙草をバカスカ吸いながら、活字に溺れた。

 

 勉強から絵を描くことに逃げたはずだったのに、自ら絵を描くことから逃げ、皮肉にも勉強の道に戻ったのだった。

 

 勉強で伸ばしてきたさまざまな適性は、勉強にのみ活かされた。たった一年受験美術をかじっただけでは、絵を描くことの適性はさほど伸びなかった。これはもうほとんど呪いだと思う。

 

 

 

 いつからかと言われればかなり昔からそういった体質にあったが、大学生になってから顕著に、恋愛にのめり込むようになった。

 

 課題の締切よりも恋愛を優先したことも多々あった。

 

 機能不全家庭育ちの子が、大人になって抑圧から開放された途端にメンヘラを開花させるのは、とてもよくある話だ。精神科の主治医からは、やんわりと境界性人格障害の気があるという判を押された。

 

 恋愛への暴走は加速していく。特に、学科の単位を取りきって、あとは実技の単位だけという状況になってからの暴走は酷いものだった。

 

 恋愛とアルバイトに没頭する日々を送る。アルバイト代は恋愛の費用に消えていく。

 

 

 

 こうなってしまえば、美術のことなど眼中にない。肩書きとしては美大生だが、もうほとんどただの恋愛とアルコールにズブズブの夜職女さんになっている。

 

 卒業制作の締切まで約1ヶ月半。当初予定していた作品はもう間に合わない。ここからどうすればよいのかわからない。何もやる気がない。

 

 それでも生きていかなければならないので、とりあえず働く。そのお金もどんどん恋愛とアルコールに消えていく。どうすればよいのかわからない。

 

 

 結局のところ、わたしは美術を志したのではなく、何らかの大義名分に逃げたかっただけなのだ。美術は勉強から逃げるためのただの言い訳であり、救済ではなかった。

 

 それも当たり前のことなのかもしれない。生を受けてから18年間、自我を抑圧されて身体だけ大きくなった大人が、いきなり自由の海に飛び込んで、練習もなしに上手く泳げるはずがない。

 

 泳ぎの練習をするためのスイミングスクールがあるように、自我を持って生きていくのにも練習が必要だ。

 

 

 

 今更気づいたところで、過ぎた時間は返ってこないし、春からの進路は未定だし、このままぬるっとフリーターになるのだろう。

 

 夜職だって永遠の仕事ではない。でもしばらくはこれでいいと思ってしまっている。たとえこの道が破滅への道のりであるとしても、生産的であることの義務感を抱えて生きていくことにはもう疲れた。

 

 しばらくは何にも縛られずに生きていきたい。解放されたい。何も考えたくない。楽になりたい。

 

 

 

 わたしが本当に欲しかったのはたったこれだけだった。何も考えずに生きていく自由と、それらを実現するだけのお金。芸大に6年通ったけれど、望んでいたものは美術ではなかった。

 

 気づくにはあまりに時間がかかりすぎたというか、ひどく回り道をしてしまった。いつかこの回り道もまるごと愛せる日が来るといいなと思う。

 

 不本意に立派に生きる必要なんかなくて、死ぬときにそれなりに満足していればよいのだ。