無自覚の毒

 

 デカ愛の熱心なフォロワーならもういい加減に覚えているとは思うが、デカ愛の母は学歴コンプレックスを拗らせた最悪なモンスターだ。

 その本質に気づかずに、よくわからない行き過ぎたエリート主義に暴力とともに洗脳されながら、習い事をハシゴしたり、半ば軟禁状態で勉強させられたりして、なんの悦びもない薄暗い幼少期から思春期を過ごしてきた。

 大学受験を機に洗脳が解け、「母はどうしようもない学歴コンプレックスを抱えているのだ」と気づいてから、人生が変わったように思う。

 

 

 わたしは自身の母を反面教師にして生きている。

 あの人はたまたま学歴にコンプレックスの矢が向いたが、コンプレックスのジャンルが何であれ、コンプレックスを拗らせた人間の生き様から感じる負のオーラには共通項があるように思う。

 だからわたしは何にもコンプレックスを抱かないように心掛けている。ルサンチマンルサンチマンとして認めて、自分の心の中に居場所を作ってやる。ルサンチマンの存在に自分で気づけないから、なんとなくイヤ〜な負の原動力となってハチャメチャな問題行動を起こしてしまい、のちのち後悔するのだ。

 

 

 とはいえ現時点でコンプレックスがゼロかと問われればそうでもない。

 日常生活に支障をきたすレベルではないものの、己の顔面に対するコンプレックス(眼瞼下垂じゃなくて、もっと人中が短くて、歯並びがよく生まれたかった)、健常者に対するコンプレックス(ADHDのもたらしたトホホエピソードのせいで削られてきた自己肯定感はもう取り返せない)(躁鬱に関しては特にコンプレックスはない。躁鬱気質のおかげで乗り越えてきた人生の壁がたくさんあるので、むしろ感謝している)、青春に対するコンプレックス(放課後にバイトして貯めたお金でユニバの年パスを買ったりファッションに費やしたりしてキラキラJKをやってみたかった)、など些細なコンプレックスは積み重なっている。

 だからと言ってそれに囚われて身動きが取れなくなることも、社会的に取り返しのつかない行動を起こすこともない。ただただそこにあるものとしてわたしの人格の一角を成している。

 

 

 ああ、でも、良好な家庭環境に対するコンプレックスはそこそこ強いかもしれない。

 母がエリート主義の国公立信者でなければ、もっとのびのびと幼少期を過ごせただろうし、それなりにマジョリティの人間(大衆消費社会に適合できる人材)になれていた可能性がある。メンタルヘルスを拗らせることもなかっただろう。その頃に父が虐待から守ってくれていれば、なおさらだ。

 今でも夜職と飲食バイトを掛け持ちして月に二桁は稼がなければ大学生としての生活がままならないのは、家庭環境(母と父の経済的な関係性とそれぞれのイデオロギー)に問題があるからだ。

 家賃が親の口座から自動的に引き落とされて、その上で仕送りをたんまりともらえて、食料も段ボールで送られてきて、週2~3のバイトでお小遣い稼ぎをして趣味や交友に使うような、そんな学生生活がほしかった。

 そんなことはどれだけ夢見ても叶わないのはわかっているので、ただただ現実として受け入れ、足りないお金は稼ぎ、足りない時間は生み出すしかない。メンタルヘルスは薬でコントロールすればいいし、認知の歪みは自分で矯正すればいい(カウンセリングは性に合わなかった)。

 

 

 コンプレックスを持つとはつまり、存在しない現実に思いを馳せて、今生きている現実に正面から向き合わず、(無意識にでも)他人を僻んで精神を病んだり、その僻みを原動力に他者をコントロールしたりするということなのだ。

 恐ろしい。

 人生のモットーを「善く生きること」「理想の聖人になること」に置いているわたしは、なんとしてでも避けたい事態だ。そのためには、自身の精神的・社会的な現在地をメタ的に把握しつづけ、不適切な方向に傾いていることに気づいたときには即座に舵を取りなおす必要がある。

 

 母親のように、メタ認知のメの字もわからないような人生であれば、無条件に幸せだっただろう。自身のコンプレックスに気づけないほどにメタ認知ができないのだ(だから悪意なく他者をコントロールできる)。

 しかし、そんな人生でなくてよかったとも思う。きっと母親のように無自覚の毒で他者を傷つけていただろうし、本当の意味での愛を知ることはなかっただろうから。なんだかんだ微小なコンプレックスはあれど、わたしは今それなりに愛されて、それなりに幸せに生きている。

 

 いざ死ぬときに、人生を後悔しなければそれでいい。自分自身で納得のいく人生をこれからも目指していく。

 もしかしてこれって母親コンプレックスなのか?