長文を書きたいという動機で長文を書く。
アルコールで過活動になった脳みそで、薄暗い部屋で煙草を吸いながら、概念について思考して言語化する作業をしているとき、生きていることを実感する。
明日(日付が変わって今日)は学校に行かなければならない。コロナも落ち着いてきたので、それまでオンラインと対面のハイブリッドだった授業も、対面オンリーになってしまった。
本当に行きたくない。大学が嫌いすぎる。
どうしてこんなにも嫌いなのだろうかと考える。もう答えはわかっている。自分の居場所が喫煙所以外にないからだ。
躁鬱でぶち壊した人間関係も、同期たちの卒業によってほとんど清算された。みんながんばって働いているか、何割の人かは修士に進学してそれぞれの制作に真摯に向き合っている。
それでも、あの大学にいると鬱だった時期を思い出したりして、パブロフの犬のように暗い気持ちになる。大学そのものがトラウマの地になっている。
わたしのツイッターを見てわたしを気に入ってくれた後輩たちが何人かいる。喫煙所にいることをツイートしたら、喫煙者でもないのに会いにきてくれた。誠にありがたい。
彼女たちもきっとわたしと同じようにこの大学の陰鬱とした雰囲気を察して窮屈に思っているのだと思う。
きっと学年に135人もいればそういう学生は生まれてしまうのだろう。わたしはそういう人たちの救いでありたい。
特にうちの大学は愛校心の強い学生が多い。入試を乗り越えることに苦労したからだろうか。受験生の頃の自分の努力を正しいものだと信じたいからだとわたしは推測している。だから、大学アンチの発言ばかりしていたら何人かにブロ解されてしまった。
過去の自分を肯定するために、自分の正しさにしがみつくために所属大学を信仰するというのは、人としてあまりにも脆いと思うので、そういう浅い人たちを見るとゾッとする。自分を肯定するツールが一時的な努力で手に入れた所属大学の称号なんて、あまりにも思考停止すぎないか。
そういうところが嫌いなんだ、京都市立芸術大学の学生の。
とはいえ、嫌いな人種を数え上げればキリがないけれど、わたしはできるだけ多くの人々の救済でありたいと思う。
メサイアコンプレックスだと言われればそれまでだが、もう自分の生に価値を見出すことができないので、他者の救済になる第二の人生を生きていくほかないのだ。
どうしてこんなことになってしまったのだろう、わたしの人生は……。
ただひとつ言えるのは、被虐待児(虐待サバイバー)は誰も彼も本当に生きづらいのだろうということだ。
精神科通いの知人は往々にして家庭環境が特殊だ。暴力、宗教、親の洗脳や支配、さまざまなケースがあるけれど、みなどこか親に狂わされてきた人生を背負っている。つらかったよねえ。でも自殺というあまりにも労力のかかりすぎる行為に対する願望を現実にしない限りは生きていかなければいけないもんねえ。
みんな幸せになってほしいな。いつか、生きていてよかったと思える日が来てほしい。
わたしに何ができるんだろう。何もできないな。ツイッターでメンヘラ芸をして傷に寄り添うことしかできない。
「メンヘラ芸で幸せになれると思ってる?弱者アピールなんて見ていて気持ち悪いだけ」という言葉を浴びせられたけれど(しかも当時いちばん寄り添ってほしかった人に)、もう開き直らないと生きていけないんだよなあ。自分で自分の人生をネタにしないと気が保てないんだ。
わからないひとにはわかられたいとも思わなくなった。この感覚はきっとわからないほうが幸せでいられる。わかるひとだけでわかり合って、捨てたいけれど必然的に存在してしまう命を繋ぎ止めていこうね。
わたしはあなたの味方です。綺麗事になってしまうけれど、毎日を必死に生きているあなたに光が訪れることを祈っているし、その日が来るまではわたしがあなたに寄り添うからね。
みんな幸せになろうね。