死は救済ということばを信仰してはいるものの、それのみを信仰するほどの覚悟はわたしにはない。
愛とはつまり他者からの無条件の肯定で、死がつめたい救済であるのに対して、愛はあたたかい救済であるように思うし、できればつめたいものに寄り添うよりはあたたかいものに包まれていたい。
24歳にもなって、幼い日々に責任を押し付けることはほんとうに愚かだけれども’(今を生きるという選択をしているのは今の自分なので)、幼少期に条件付きの愛情しか与えられなかった経験がその後の人生における人間関係に影響をおよぼすのは事実。
だからといって、今更親からの無償の愛を回収したところで、何の救済にもならない。
他者からの愛を糧にする、一般的な"幸福な人生"を諦めきることができない。
わたしが他者からの愛に飢えていることについて、かつては「自分が自分を愛せない代わりに自分を愛してくれる人がほしい」のだと結論づけていたけれど、最近はなんだかそうでもないような気がする。
自己肯定感が低いゆえに、自己肯定感の高いふるまいを形として導入した結果、それなりに自己肯定感はついてきた。言霊とはすばらしい。
それでも、やはり他者から存在まるごとの承認を、肯定をされることは気持ちがいいことを知ってしまったので、あてもなく探してしまう。
この世の真理をつくような無償の愛などというものはマッチングアプリにはそうそう落ちていない。大抵の利用者は性欲を持て余していて、それを発散させられる動物的なヒト探しをするツールに、わたしの求めているものはない。
ただ、Tinderで一時的であれど愛されることの心地よさを味わうという成功体験をしてしまえば、一度快楽をおぼえた脳はそれを忘れない。今のところ三例も打ち砕かれていて、大きな傷を負っているけれども。
どうすれば救われるんだろう。わたしはいつか救われるのだろうか。
自虐ネタのピエロにでもならなければやり過ごせない人生のまま醜く老いていくことがほんとうに怖い。
恋愛市場においては女のほうが圧倒的に有利で、受動的に息をしているだけでも差し伸べられる手が多い女のほうが救われやすい分、救われない女でいることはあまりにも惨めだ。
タイムマシンにでも乗って、わたしが将来どこかで救われているだろうかということを確認できればいいのに。
もし救われていないことがわかれば、潔く諦めて死ぬ覚悟ができるのに。
他者という不安定で不確定な存在を信仰し奔走している、愛にしか生きられない自分を見つめていると情けなくなる。
こんなことをうだうだと考えなくても、無自覚の救済を得てしあわせそうにしている人間を見るとなおさら馬鹿馬鹿しい。
精神科にカップルで来るなよ。理解のある彼くんがいてほかに何を求めるものがあるのだ。
嫉妬が止まらなかった。わたしが欲しくてたまらないものを持っているくせに、それでもなお不幸そうな顔をしている女がとにかく不快で許せなかった。
愛にしか生きられないことが苦しい。しかも、誰でもいいわけじゃないということがなおさら自分の首を絞める。
先日Tinderで家に来た全くタイプでない男が、突然なんの脈絡もなく「キスしよう」と言い出して気持ち悪かった。勝手に「この見た目の女なら抱ける」と欲情されても気持ち悪いだけだ。
こんなにも愛に飢えているのに、いざ愛(のような顔をした性欲)を向けられた瞬間に選別しようとするからいつまでたっても救われない。
タイプでない男から向けられる性的な視線はどうしてこんなにも気持ち悪いのか。まだ全く言語化できていないし、気持ち悪さを反芻したくもないのでおそらく言語化することもないだろうけれど、不思議でたまらない。
救われたい。望む相手から肯定されない惨めな人生にはもう飽き飽きだ。いい加減そろそろ降りかかってもいい頃だと思う。
わたしよりも知能や認知能力が低くて、娯楽で時間を消化することでしか生きていない、しかもそれに無自覚な人間のほうが先に救われている理不尽に耐えられない。
もう20代も半ばに差し掛かって、女としての消費期限のカウントダウンははじまっている。どうかわたしに若さという価値があるうちに、できれば今年中に救済に導いてくれる人に巡り合えますように。
ほんとうに苦しい。最近はこんなことばかり考えている。