ぼくのかんがえたさいきょうのかみさま

 

 わたしの短歌にはよく「神様」が登場します。2020年に自家出版で出した初めての歌集「祈りの手引き」は、第一章のテーマが「祈」です。

 

 かみさまは見えない 会えない さめざめと泣くわたしまだ生きていたいの

 あしたこそメシアになれるだろうかと星に願う横顔がかわいい

 門限を守れなかった星たちの懺悔をひろってきらきらになる

 

 これらは第一章からの抜粋です(わざわざお手に取ってくださったみなさま、公開してしまってすみません)。

 なんとなくキリスト教じみているのが伝わりますでしょうか。あまりにも薄っぺらいですが当時はこれが精一杯の祈りでした。

 

 

 これらの短歌を作っていた頃は、キリスト教に憧れていた時期でした。

 「わたしたちには生まれながらにしてどうにもできない罪があるので、神様は唯一の子・イエスを救世主として天国から地上へと送ってくれました。その出来事を信じ、己のその罪を悔い改めるのであれば、神様は天国に迎え入れてくれるでしょう。」

 という教え(強引にまとめすぎて要約としてはあまり正しくない)は、過度に合理的な世界に絶望したメンヘラと相性がいい。

 

 生きているだけで常に罪悪感がつきまとい、いつでも形のない何かに許されたいと懺悔していて、早く誰かに助けられて天国に行きたいというロマンチスト型メンヘラにとって、”神様”とはあまりにも便利すぎるワードなのです。

 

 

 しかしこの”神様”はもちろん「ぼくのかんがえたさいきょうのかみさま」ですから、宗教的な神様ではありません。

 特にキリスト教のような一神教からしてみれば、こんな”神様”は異端どころか侮辱ですらありそうで怖いなあと思いながら、「ぼくのかんがえたさいきょうのかみさま」を心に宿しています。

 

 わたしには生まれながらにクリスチャンの友人がいます。わたしは彼の見ている神様を同じように見ることができません。

 たとえどれだけ愛に満ちた敬虔な宗教的生活を実践しても、ネイティブで神様を信じてきたひとたちには到底敵いません。神様を信仰していなかった、無神論者としての幼少期からの時間が、天国にいる神様の純度を下げてしまうからです。

 そこでキリスト教への憧れを捨てました。軽率な憧れは、冒涜と紙一重だと思います。

 

 

 だからわたしは今日も「ぼくのかんがえたさいきょうのかみさま」を心に宿しながら、生につきまとう罪悪感から解放されて、苦しみのない「ぼくのかんがえたさいきょうのてんごく」にたどりつくことのできる日が来ることを祈りながら、魂をインターネットに浮遊させています。

 現実に魂を置いてしまうとただただ苦しいだけですからね。資本主義の奴隷として命をつなぐことが人生の本質だなんて嫌すぎる。魂ぐらいはオリジナルのユートピアに置かせてください。

 

 「ぼくのかんがえたさいきょうのかみさま」がわたしを許してくれる日は来るのでしょうか。今のところ、なんだか来なさそうな気がしています。

 「かみさま」なんて言っても結局は自意識の一部ですから、付け焼き刃でハリボテの自己肯定感を着飾ることで強い人間のふりをしているうちは無理でしょう。

 救われたい、救われたい、と嘆いているだけでは救われません。救われたい自分を救うのは自分です。これを突き詰めると自己責任論に陥ってしまうのですが、まあ自己責任論も他者に押しつけないうちは誰にも迷惑をかけませんし、ひとりで重みにくたばっていくだけですから、まあよしとしています。

 

 「ぼくのかんがえたさいきょうのかみさま」なんてものがいなくても、ほんとうのわたしがわたしの全てを許すことができる日をきちんと迎えるために、とりあえず今日も明日も明後日も、なんとか生きていこうと思います。