いつか救われる日が来るまで

 

 ついに昨日、「理解のある彼女ちゃんになれなかった」に登場する元彼が、2ヶ月ほど入院した閉鎖病棟から出てきた。

 

note.com

 

 共通のフォロワーが彼の帰還報告を喜ぶツイートをしたのを見て、彼が出てきたことを知った。本人から直接の報告がなかったことに発狂しそうになった。どんだけあんたの尻拭いさせられたと思っとんねん。なんでツイッターができてLINEができへんのや。ええ加減にせえよ。もうインターネット辞めろ。二度と視界に入ってくるな。

 ……とは言わなかった。「生きてるなら一報入れるのが礼儀じゃないですか」とだけ送った。わりとすぐに謝罪の返信がきた。そして、お互いの家にあるさまざまな物を受け渡しする必要があることを話した。

 人間関係をリセットする癖のある人で、郵送という選択肢を提示したにも関わらず、直接会うことを選んだので驚いた。もしかしたら入院中に人格が変わったのかな、と思った。

 

 

 心斎橋駅のホームで待ち合わせた。コミュ力オバケのわたしでもさすがに気まずくて黙り込んだ。しかし、10ヶ月の交際期間のうちの70%ぐらいは一緒にいた(ような気がする)ので、すぐに打ち解け直した。

 喫茶店に着いて、向こうの話を淡々と聞いた。ODの最中から目覚めるまでの記憶が全くないこと、閉鎖病棟から脱走しようとして失敗したこと、これまで何度も自殺に失敗しているのでもう生きるしかないと価値観が変わったこと、2ヶ月も強制的に禁煙させられたので久しぶりの煙草が美味すぎて感動したこと。

 

 どうやら彼の中ではわたしはもう彼を見放したことになっていた。

 共通のフォロワーから自殺の実況を知らされたわたしが、用件を中断してタクシーで家まで迎えに行ったが、吐瀉物とシケモクと割れた酒瓶が散らばった空間に肝心の本人は不在で、近所を探し回ってバイトに遅刻したことなんて、予想すらしていなかったらしく、「もっと冷たい人かと思ってた」と言われた。

 上記のnoteにも書いたが、交際中のわたしは彼を救おうと必死だったのだ。わたしは彼に精一杯のやさしさで接していたつもりだ。

 それが”もっと冷たい人”と評されるところに、わたしたちの関係性の歪さが表れている。わたしたちは何もかもがすれ違っていたのだ。

 

 わたしも2ヶ月間のことについて話した。

 とはいえここ2ヶ月のわたしと言えば、彼の自殺未遂をきっかけにかなり精神状態が悪く、ずっと無気力で、大学のオンライン講義もろくに聞かず、短歌をやる気にも本を読む気にもならず、ただただ現実逃避としてインターネットをしたり、ギターを弾いて歌ったりしていただけだった。

 メンタルヘルスの問題で大学院進学を諦めたことと、もうメサコンは辞める決意をしたことを話した。

 

 

 それ以外に特に話すことがないので、「自殺はいろんな人に迷惑と心配をかけるということを実感しただろうから、いい加減に懲りて生きなさい」と念を押した。

 念を押されずとも彼はもう生きるしかないことを理解していた。何度も失敗していることから、人間の肉体はそう簡単に死なないようにできていることを学んだのと、何よりも閉鎖病棟での生活が生き地獄のようだったらしく、もう自殺に失敗してあそこには戻りたくないとのことだった。

 消極的選択ではあるが、まあ前向きになったようなのでなんでもよかった。

 

 生きるしかないと開き直ったことに伴って、認知の歪みが少し改善されているように感じた。わたしが彼を救おうとして言ったことばの数々を、ようやく理解したようだった。

 こんな規模のことが起きないと理解できないのかよ、と思ったが、まあ魂のステップアップのペースは人それぞれなので仕方がないのだろう。

 

 

 交際していた10ヶ月間、救おうとしても救おうとしても救われてくれないどころか、手を振り払われたり、もはや敵扱いをされることもあったりなど、わたしはとにかく苦しかった。

 そして、別れを切り出した直後に自殺未遂だなんて、まるでわたしが殺したみたいじゃないか、と2ヶ月間もずっと苦しかった。

 

 彼が生きることについて前向きになって帰ってきて、ようやくわたしが救おうとしていたことを理解して、明るい未来を見据えている彼を初めて目にして、わたしはやっと報われたような気がした。

 わたしの苦しかった10ヶ月+2ヶ月は、無駄にならなかった。わたしのメサコンの部分もこれで成仏してくれると思う。

 

 

 堺筋本町にある喫茶店をハシゴして、安い居酒屋に行って、カラオケに行って、解散した。なんせ昨日出てきたばかりで、都会の空気も、淹れたてのコーヒーも、雨も、生ビールも、歌うことも、何もかもが2ヶ月ぶりの彼は、いちいちいろいろなことに感動していておもしろかった。

 あと、リハビリ程度しか身体を動かさず寝たきりだったので、荷物を持つ筋肉が衰えており、居酒屋で箸を持つ手がギャグぐらいに震えていたのもおもしろかった。知り合いのアル中みたいな震え方だった。

 

 そしてわたしのバイトの時間が来たので解散した。今日の食事代はわたしが全額奢ったので(閉鎖病棟から出てきたばかりの無職男性に割り勘を請求するほど鬼ではない)、まあいつかどこかに就職できたら奢ってよ、と言って解散した。

 もう彼とは男女仲になることはない。これ以上、どうしても傷つけ合ってしまう距離にある人間関係になるべきではないからだ。とはいえ、わたし以上にいい女なんてこの世になかなかいないと思う。まあがんばってくれ。わたしは先のことは無問題なのでご心配なく。

 

 これからは、ニュートラルな魂の友人として仲良くできたらいいなとわたしは思っている。たぶん向こうも同じことを思っているような気がする。

 共通のフォロワー、特にわたしたち二人セットで一緒に会ったことのある人たち、大変ご迷惑をおかけしました。ごめんなさい。もうわたしたちの関係性に問題はないので、ぜひまたどこか喫茶店でも居酒屋でもバーでも誘ってください。

 

 

 

 本当に、自殺なんてするもんじゃない。誰かが悲しむよとかそういう次元じゃない。

 まず、とにかく迷惑がかかる。誰かが尻拭いをさせられる。そしてその尻拭いをさせられる人物の多くは、自殺(企図)者と近しい関係性にある人物だ。近しい関係性にはどのような形であれ愛が宿っている。家族、恋人、友人、先輩後輩、SNSのフォロワー、その他。

 愛をくれた人に尻拭いをさせるなんて非道にも程がある。恩を仇で返すな。愛には愛を返せよ。

 迷惑を被った人物がそのまま精神の調子を崩すことも往々にしてある。他人の死(今回は死んでいないが)というイベントの持つエネルギーはとてつもなく大きい。それにつられて苦しむ人が生まれることは決して珍しくない。

 

 われわれは生まれてしまったからには生きるしかないのだ。どうしても愛を抱えて生きてしまうから、愛を返すために生きなければならない。

 救われるか救われないかは、死ぬ瞬間までわからない。もしかしたら救われるかもしれないし、救われないかもしれない。シュレディンガーの猫と同じだ。救われない可能性しか見据えずに人生を終わらせようとするのは、おかしな認知バイアスだ。救われる可能性だって同等にあるのに、どちらか一方しか見ない(見えない)のはおかしい。

 救われは突然発生しても受け皿がないと逃してしまう。救われる心持ちが必要だ。救われようとしないと救われない。

 

 

 いつか救われる日が来るまで、いつでも救われるように準備をして、なんなら誰よりも早く救われるように救われるべき人間像を目指してほしい。どうかみなさまが、生きていてよかったと思える日が来ますように。