幸せになりましょう

 

 

 最近のわたしはは毎年恒例の夏の躁転を終えて、だんだん冬の鬱に向かってゆっくりと流されています。

 毎年、冬は特に調子がよくない。12月から1月にかけてと、3月から4月にかけて、毎年どうしようもない希死念慮に襲われます。


 特に午前中は身体が鉛のように重いです。起床してから本調子を取り戻すのに8時間かかります。午前中に調子が悪く、夕方ごろにかけて調子がよくなるというのは、鬱病の典型例です。
 それでも、不規則に決められたバイトのシフトや制作(日の昇っているうちにしか進められない)という時間は無慈悲にもわたしを追いかけてきます。

 逃げ惑うのに必死で、重い重い身体を引きずって、なんとか社会にギリギリ適応しております。

 

 

 ここ最近のストレスは特に金銭の問題がほとんどを占めています。夜職女のはずなのに、マインドが貧困。
 運よく多少のナメガキ環境を持ち合わせているので、家賃と光熱費は仕送りでなんとかまかなうことができています。ありがたいですね。

 それでも、食費やその他生活費(備品、交通費、精神薬代など)については足が出るので、いくら鬱で身体が動かないとはいえ、バイトを長期間休むわけにはいきません。


 さらにわたしは転科による留年をしており、(半年休学をして)1年半分の学費は自己負担するという約束で大学内で専攻を転科したので、公立ですから約80万円を貯金しなければなりません。
 そうなると、収入の半分ほどを貯金にまわす必要があり、自由に使えるお金というのが大学生の平均所得を大幅に下回るので、収入に対してQOLがかなり低い。
 実家を出たことも、転科をしたことも、そうならざるを得なかった背景は十二分にありますが、そういった選択をしたのは自分自身ですから、自己責任です。流行りの自己責任論。


 おかげさまで、物欲というものをほとんど失ってしまいました。欲しいと思ったところで手に入れられないので、諦念のような学習性無気力で、殺されてしまいました。

 あんなに大好きだったお洋服も、半年に一度ぐらいしか買えない。自分の価値観の肥やしになる本や機会も、経済的な理由で諦めなければいけないことがとても多い。鈍色の毎日です。

 

 とっとと死んでしまえば、この低いQOLの苦しみから解放されるのにと思いますが、わたしにはどうしても死んではならない理由があって、あと単純に動物的な本能として自殺への恐怖のようなものもあります(痛いのは嫌、生き残っても後遺症でこれまで以上に苦しい生活を強いられる可能性がある、など)から、死ぬわけにはいきません。

 

 

 今日は京阪電車で、昼と夜に人身事故が2件起きました。

 自殺か事故か、亡くなった方がどういった理由で電車に飛び込んだかはわかりませんが、「死ぬときぐらいひとりで死ね」と言い放つ人間のつめたさには嫌悪感をおぼえます(認知症で徘徊した老人が踏切を超えてしまうというケースの人身事故も少なからずあります)。


 人身事故を自殺だと決めつけて心無いことばをかける人間の想像力のなさに毎回驚きます。鬱や希死念慮だって、誰しもに降りかかる可能性があり、明日は我が身ですからね。

 確かに、他人の死の尻拭いを業務としてこなさなければならない鉄道会社の方々には、多大なるご迷惑をおかけしてしまうので、死人に同情だけをするのは正しくはありませんが。

 

 

 お金がないと心の余裕がなくなるということを実感するたびに、大人になったなあと思います。
 世間のみなさまがブラックフライデーで何を買おうかと浮かれているのを見て、妬みや自身の救えなさに支配されて、結構キツかったです。
 でも恵まれている方々には、恵まれない人間の分も幸せを享受してほしいと思っているので、どうか購入したものが彼らにとって有意義な宝物になることを願います。


 先日、バイト先で「なんでわたしってこんなにお金ないんやろなあ」とぽっとつぶやいたとき、わたしの何倍も器用に仕事をこなせる、立場が圧倒的に上の同僚に「お金がないって言うからお金がないねんで」と言われ、ADHDムーブのミスだらけでいつまでも昇給できないわたしは何とも言えない気持ちになりました。

 勝ち組の方々"当たり前"の暴力に震えるばかりです。

 

 

 特にこの記事にオチはありません。ただ、収入にかけている労力にに対するQOLの低さの苦しみと、周期的な鬱への苦しみで、そろそろ限界を迎えそうだということを発信するために書いています。


 とはいえ、限界を迎えたところでわたしは死ねないので、「ギョエ~」「限界ダ~」「救済(たす)けてくれ~」と言いながら、社会に置いていかれないようにもがくしかないのですが。
 「つらくなってきた」と思うたびに、「なってきた」と表現することに驚きます。もともとつらいはずのに、まだ下降するつもりなのかと。どこまで行くのだろうかと。

 

 

 それでも、わたしはいつものようにアルコールで眩暈を起こしながらも、眠気をこらえて3000字オーバーの自己満足な文章を長々と書いているあたり、よほどことばというものに取り憑かれているのでしょう。

 最近はとても短歌がはかどります。どうやらわたしの創作への姿勢は、苦しみを美しいものや笑えるものに昇華することで己を救うというスタイルなので、苦しみがなければ何も生み出せないという業の深さがあります。

 創作を続ける限りは苦しまなければならないので。救いがないですね。


 芸祭で出版した短歌本をお手に取ってくださった方々、ほんとうにありがとうございました。感想をくださる方も数名いらっしゃって、自分の苦しみと祈りは誰かの心をゆさぶることができるのだと、とても救われました。

 「祈りの手引き」というタイトルは、名前のとおり、わたしの祈りを記したものです。
 よろしければ他にも感想もいただけるとさらに救われます。まだ在庫も僅かながらありますので……(しぶとい)。


 短歌というもののもつ魅力にに興味をもつ人口が増えてほしいと常々思っています。人口が少なく界隈がとても狭いのと、"いい作品"と呼ばれるものの型が数十年も凝り固まっているので、風通しが悪い。

 あるある系で多くの人の共感を呼ぶものほど評価される、という風潮がずっとあります。わたしはそこからかなりはみ出ているので、仲間がほしいです。

 


 あの本の前半とタイトルは、キリスト教をテーマにしていました。宗教は救済なので。

 信者ですらないのに、上っ面の部分だけお借りすることへのうしろめたさはありましたが、キリスト教ってことばと価値観がいちいち美しいので、信者ではなくとも憧れがあります。
 後天的にいきなり宗教を信じるということは難しく、生まれつきの無神論者が急に神様を信じても、生まれた環境によるネイティブの信者の方には到底かなわないので、憧れることしかできません。不敬をお許しください。

 

 

 せめてもう少しQOLが高ければいいのになと思います。さっさと貯金を終わらせて、不自由のない自分への投資ができる日のために、身体に鞭を打ってがんばりたいと思います。

 学費の貯金が終わったら、まずはノートパソコンをMacbook Airに買い換えたいです。この先の制作のことを考えると、Macのほうが圧倒的に都合がいいので。



 明日は2限からなので10時35分に起きなければなりません。鬱になるとあからさまに睡眠時間が延びるので、8時間睡眠でも精神的・肉体的疲労がとれない日々です。

 精神疾患はとても厄介。精神は不可逆なので一生向き合うしかない(特に双極性障害は一生ものだと言われています)ので、なんとか耐えしのぎます。

 

 みなさま、どうかよい夢を。世界中に、幸せな人は多ければ多いほどよいです。幸せになりましょう。
 おやすみなさい。