永遠の幸せにつながる恋愛を救済とするならば

 

 

 わたしは"救済"ということばをよく使います。"救済"ということばには知的好奇心と呼べるものをはるかに超えた未知の夢を見させる魅力があると思います。わたしの人生の最終目標は"救済"です。誰かに救済されることでわたしの生はすべて報われると考えています。

 そもそもわたしの”救済”の定義もあいまいで、あまり的確で端的なことばは見つかっていませんが、ニュアンス的には"耐え抜いてきたこれまでの苦しみを帳消しにする程の大きな絶対の幸福"というようなものです。

 

 救済ということばから連想される大きなもののうちのひとつに宗教があります。たとえばキリスト教は、人間は生まれながらに原罪を背負っていて、信仰によってイエスの償いの功績のおこぼれとして人間に与えられた恩恵が神様から我々に与えられ、現実を超えたその先の世界(=死後の世界)で永遠に神様からの恩恵を受けられるという考え方です。ずっとずっと先に世界が終わるときに、神様が最後の審判を行い、キリストが救世主として現れ、忠実に信仰していた者は天国に送られ、それ以外の人間は地獄に落ちるとされる宗教です。

 他にも、仏教においても救済が行われます。こちらは、個人が現世の修行において悟りを得て仏様になる(解脱する)と、苦しみであふれる世界の無限の輪廻の歯車から外れることができて、この世に二度と転生することなく、同じ苦しみにもう遭わずに済むことを指します。

 死後の世界の有無についてほとんど真逆の立ち位置ではありますが、どちらも"人間が生を受ける上で避けられない悲惨な現実から解放される"という点で共通しています。

 わたしはあいにく合理主義者で、科学的に証明されるもの以外は実在しないという考え方が根本にあるので、神様も仏様もおるわけないやんけと思っていて(宗教を否定しているわけではないです)、だとすればつまりわたしを救済できるのは人間のみとなってしまいます。

 

 

 他者に救済を求めるのは間違いであることは重々承知しています。みなそれぞれ自分自身の人生を背負うことに忙しく、他者に献身的に構っている暇と労力があるならば、自分を幸せに導くほうが建設的で妥当だからです。

 それでも、わたしは他者からの救済を求めてしまいます。自分で自分を幸福に導くことはできないだろうという予感があり、その予感はおそらく死ぬまでついてまわるだろうということを確信しているからです。

 

 人間はしばしば結婚を誓うとき、「あなたを永遠に幸せにします」と言います。少なくともロマンチックイデオロギーにおける婚約では、死ぬまでの時間をその人のいちばん近い隣で過ごし互いの人生を預かるということ、どちらかがその先の人生においてぶつかる壁を乗り越えるときに力を貸して助け合うことを契るということを指します。

 ロマンチックイデオロギーに則った結婚の根っこにあるものは恋愛です。経済的ないし社会的な戦略結婚というケースもありますが、とりあえず王道とされるルートでは好きな人と永遠に結ばれるというところにスタートします。

 

 永遠の幸せは、宗教でいうところの"救済"に近い概念であると思います。それゆえに、わたしは恋愛つまり異性から救済されることをどうしても望んでしまいます。人生に苦しみがあまりにも多いからです。

 先日、梅田のHEP FIVEの高層部から飛び降り自殺をした男子高校生が、地上にいた女子高生と衝突し、ふたりとも亡くなってしまったという事件がありました。他者の幸福の可能性に向かって生きていく権利を奪ってしまうことは決して許されることではありませんが、少なくともわたしは飛び降り自殺を図った彼を純度100%の心からで責めることはできません。それは、人身事故で電車を遅延させてしまい乗客に恨まれる自殺者についても同じです。

 苦しみから解放されることへの期待、つまり救済される未来へのビジョンが見えなくなってしまったとき、救済されるかどうかもわからない苦しみだらけの道のりを閉ざしてしまいたくなる衝動にどうしても共感してしまうからです。

 

 

 永遠の幸せにつながる恋愛を救済とするならば、わたしは恋人という立場でいる人に救済を求めてしまいます。

 その場しのぎでフィーリングの合う相手と楽しい時間を過ごすことに没頭すると、一時的に生の苦しみを実感せずにいられます。しかし、それはまやかしの幸福にすぎません。本質的な苦しみの根本的解決にはなっていないからです。

 ただ、この世の多くの人は、恋愛と救済を結びつけていないように感じてしまいます。そしてそれはわたしの主観で世界を見ている限りでは事実であるように思います。そして、いちいちそんな重苦しいことを背負って恋愛をするほうがどちらかというと異常です。人間の恋愛の先にあるものは生物としての繁殖ですから、繁殖をためらわせるような、邪魔になるようなことは生物のもつ役割に性質に背きます。

 

 もちろん同じような価値観で互いに恋愛を見据えることができるならば、救済に限りなく近いところを目指すことができます。しかし上記のように多くの人はそのような価値観を持ち合わせていません。それがマジョリティである以上、それが社会における正しい恋愛のやり方です。マイノリティとマイノリティが出会う確率はそう高くはありません。

 これまでマジョリティに則った恋愛をしてきた経験上、恋人というのは"ともに時間を過ごす上で互いに唯一の役割を担う存在であることを約束しあい、デートや会話などで楽しい時間を過ごし、生物の持つ役割を疑似体験するためのセックスをする"関係性にある相手です。
 性欲というものの根本は、生物として生殖を目指す道中にある本能的な欲望であると思います。自分の精神が最も満たされる繁殖の方法の個人的なデザインが性的嗜好なのだと思います。
 イチャラブや首絞めや乱交などいろいろありますが、互いに精神的に最も満たされるのであればどんどん推奨されるべきだと思います。そして、自分の満たされたい欲望が他者のさまざまな人権を一方的に奪ってしまうことは咎められるべきであるし、性犯罪として裁かれることは当然です。

 

 かなり話が逸れましたが、つまりわたしは他者に救済されたいという願望が捨てきれないということです。生の苦しみが生のよろこびをはるかに上回るからです。苦しみから解放されたいのです。あわよくば、これまでの苦しみはこの幸福に到達するために不可欠な修行だったのだと、伏線の回収のように苦しみに納得できる未来が来てほしいと願います。

 生の苦しみは今更どうにもできません。いまさら過去のせいにして恨んでも現実は何も変わらないし、恨むだけ労力の無駄だということは骨の髄までわかっています。
 しかし、わたしが生まれて育ち過ごしてきたこれまでの人生は、この先の希望を奪うほどに苦しいもので、それは生まれた環境または人格形成を行う環境に由来することは事実です。機能不全家庭、いじめ、先天的な側面の大きい発達障害精神障害。苦しみの多い人生をまっとうするには十分すぎる装備です。それらの過去とその先に生まれた人格は完全に捨てられるものではありません。そして、学習性無気力のように、抗うことすらももはやできません。それほどの精神的なエネルギーはもう枯渇してしまいました。

 救済への道のりを異性、恋愛に結びつける癖のある人の多くは、人間関係、とりわけ生まれながらの一番身近な人間関係である親との愛着関係がうまくいかなかったという傾向にあります。この世にはびこるメンヘラに分類されてしまう人は、家庭環境や親との関係性に問題があるケースが多いです。そういった人が一定数に存在してしまうことはとても悲しいことです。しかし、それについてはどうしようもない不可抗力です。運悪く環境ガチャのハズレを引いてしまったのです。

 

 

 恋愛と救済を結びつけすぎてしまうことが間違いなのでしょうか。永遠の幸福を約束されることと、永遠の恩恵を受けられる保証を同一視してしまうことが間違っているほでしょうか。

 恋愛と救済を結びつけることは諦めるべきであるということ、そして自分を救済できるのは自分という人間をいちばんわかっている自分自身のみであることは、ここしばらくでかなり実感をもつことができるようになってきました。
 それでも完全に捨てきることは今すぐにもこれから先の未来でもできそうにありません。なぜなら苦しみをこの先も永遠に抱えて生きていくことをほとんど確信しているからです。

 

 23歳にして、自分の人格を背負って生きていくことに疲れてしまいました。さまざまな事情(主にこんなわたしに好意的に接してくれる人々へ感謝の念です)で自殺をして救済までの道のりをシャットダウンするわけにはいかないので、残念ながら苦しい生を寿命まで際限なく続けていくことが、わたしが与えられた生において遂行しなければならないことです。

 

 

 この世には運悪くロマンチックな恋愛にたどりつくことのできない人々はたくさんいます。環境や性質という逃れられない足かせが原因で、いわゆるインセルという不本意の孤独しか用意されず、異性と関係を結んだ経験がなく、さらにその恨みが異性に向いてしまい、異性を憎悪することで自らを納得させ慰めることのできない人々です。
 そのような人々と比べれば、おかげさまでロマンチックな恋愛をする機会が十分にあるわたしはとても恵まれていると思います。ロマンチックを実感できるにも関わらず満たされないことに苦しむというのは贅沢な悩みです。

 それと同列に並べてしまうことはこの上なく愚かなことではありますが、虚しさや孤独の絶望が約束されているという点では共通していると思ってしまいます。どちらも、救済への道のりがとても厳しく、さらには厳しいだけでなく最終的にたどりつけない可能性があるという点で、どちらも恵まれないことだと思います。

 

 

 これは、マッチングアプリツイッターなどで恋愛や異性観念の倫理を歪ませてしまった罪、そしてその上に性産業と隣り合わせである夜の仕事のアルバイトに(やむを得ずとはいえ)手を出してしまった罪の罰なのでしょうか。このような人格が形成されてしまったバックグラウンドはもはや仕方がないとしか言えませんが、それにしてもそれを拗らせて上書き保存してしまったことは自業自得なのかもしれません。

 人生の上書き保存は、Ctrl+Zのように、またアナログ水彩画制作において不適切な下色を入れてしまい絵画の彩度を下げてしまったことをどうにも後からは修正できないように、巻き戻すことはできません。

 

 

 わたしは、神様仏様をなどの宗教を信仰するなどして、救世主の役割を無機物(何らかの一方的な精神的なエネルギーを押しつけても何ら影響を受けない存在)に押しつけない限りは、死ぬまで救済されないのでしょう。

 虚しい限りですが、受け入れるしかないのでしょう。

 早く楽になりたいです。生きていてよかったと思える時が来るのを待つこと、慢性的な苦しみを抱えざるを得ないことにはとても疲れてしまいましたが、自殺という選択肢を選べないでいる限りは、苦しみを見て見ぬふりして生きてゆくしかないのでしょう。

 

 今のわたしには、アルコールやSNSで苦しみをごまかすことしかできません。それで精一杯です。身動きが取れません。だらだらと苦しみをごまかしているうちに、故意ではない死が訪れることを待つことしか、今のわたしにできることはありません。

 

 救済されたいなあ。