4~5日前に友人が自殺未遂をした。日程から死への道のりをきちんと知らせてくれていて、なんて確固たる意志で積極的に死に向かう子なんだと感心するほどだった。
いろいろアウトな部分があるので詳しくは書かないけれど(とはいえ察しのいい人ならわかると思う)、わたしはとある手段で彼女の背中を押した。
死にたい人の死を応援することがその人のいちばんの救いだと思うから。死にたい気持ちを自己満足のきれいごとで無責任に否定されることほど胸糞の悪いことはない。
自殺を引き留めるということは、その人の生き地獄が続くことを祈っているに等しい。残酷にもほどがある。
結局その子は死ねなくて、生きて目を覚ましたときにご丁寧に電話をかけてきてくれて、自殺の実行から失敗までの流れも説明してくれた。おもしろい。本人も笑っていた。
すると今日の昼ごろに弟から「友達が自殺未遂してんけどどうしよう」というラインがきて、自殺未遂が流行っているのか?と思った。
同じ家に住んで同じ親に育てられて同じものを食べて育っても、こうも自殺についての価値観が違うのかと驚いた。
弟はどうしても引き留めたいらしかった。理由は、死なれると悲しいからみたいな感じだったと思う。
わたしは、友人が自殺をすると聞いたとき、ちっとも悲しくなかった。やっとこの子が苦しみから解放されて楽になれるのだなと、これまでいろいろな話を聞いてきたわたしまで報われる思いだった。
わたしと弟のどちらかだけが正しいなんてことはない。どっちも正しい。死生観なんて人の数だけある。弟のような考え方がマジョリティだから、自殺者を減らそうなんて風潮が社会に蔓延しているのだろうけど。
自殺者数が減ったところで、生き地獄に救われない人間の数は変わらない。
感情論で自殺を引き留めるのは残酷だ。その人の本質を絶対的な救済に導くほどの約束もできないのに、他者の生死に干渉するなんて無責任な一方通行の執着でしかない。こんなものは愛と呼ぶわけにはいかない。
人が死んで会えなくなることと、疎遠になったかつての旧友に会えなくなることの違いがわからない。最後というものはひっそりと日常に溶けている。もう二度と顔を合わせることがなくなるという点では何ら変わりはない。
大切な人の死と、どうでもいい他人に会えないことはたしかに精神的なエネルギーを考えると並べるべきじゃないのかもしれないけれど、それにしても遅かれ早かれ人間は死ぬ。自分が先か大切な人が先かはわからないけれど、いつか二度と会えなくなる日がくることは産まれてきた瞬間から決まっている。
自殺とは、その最後の日を自らの手で決めるというだけなのだ。いのちの上でもっとも尊重されるべきものである。
自殺幇助が罪に問われる意味が分からない。誰かにとっての神様になって救いを与えることには無償の愛がある。死んだら何も返ってこないので。
わたしはれっきとした無宗教であるが、神様ということばがとても好きだ。二十数年生きてきて、たくさんのことを知ったけれど、神様には会うことができないから、存在しない概念に無限の夢を見ることができる。
弟はその子に死なないでほしいそうなので、まあ死にたがりが思いとどまろうとしそうなことばをいろいろ送ってなんとか今日は引き留められたらしい。
「わたしがいなければこの世の何もかもがうまくいったのに」に対して「もういてしまっているのでそんなたらればは実在しないし、少なくとも他人を悲しませるという影響力がすでにある」的な返しをさせた。
メンヘラにはド正論が効く。
なんとかうまくいきそうな流れになったらしく、姉がメンヘラでよかったね、と言った。持つべきものはメンヘラの姉。大事なことはなんでも教えてくれる。
わたしは冬にしては元気だ。年末と二月前半に爆裂な鬱がくるのがもう毎年のことだったけれど、いまはとてもはつらつとしている。いろいろな案件の〆切を抱えて、誰かに会う予定もいろいろ立っていて、生きる気力に満ち満ちている。未来の日付の約束とは、その日まで生きていますよという誓いである。
これが躁転なのか寛解なのかはもはや自分ではわからない。のちのち鬱になってから、そのコントラストではじめてあれが躁転だったことに気づく。
もし寛解だとしたらとてもうれしい。とんでもない量の薬を飲んでいるけれど、元気でいられるならなんでもいい。
そういえば自分はもともとはつらつとした人間で、好奇心に向かってまっすぐで、あれこれ手を出す子供だったのだ。そのときのマインドを取り戻しているようで、やっと本当の自分を取り返すことができた。とてもうれしい。おひさしぶりです、おかえりなさい、と言いたい。
これが死ぬまで続けばいいなと思う。死に向かって生きているのだから、楽しいほうがいい。
どうか寛解でありますように。