お坊さんってシフト制なんだろうか

 

 

 

 日曜日、おじいちゃんが死んだ。84歳だった(初めて知った)。昨年あたりから、子供のすくすく育つ様子を巻き戻すように弱ってきていて、そのまま流れるように老衰で亡くなった。喫煙者で特に運動もしていなかったが、大きな病気をすることもなかった。

 

 母方の親族とは縁が切れていて、親戚と呼べるような身内は、父方のおばあちゃん、おじいちゃん、おじさん、母、父、わたし、弟で、強いてつけ加えるならおばあちゃんの妹、その娘さん(=父のいとこ)だ。

 近しい誰かが死んだことがなかったので、葬儀に参列するのは23歳にしてはじめてだった。

 (父方のひいおばあちゃんの葬儀には10年ぐらい前に顔を出した記憶はあるが、肝心のひいおばあちゃん本人に会ったことは一度あるような気がする程度で、顔も覚えていなかった。)

 

 

 小学生の頃は長期休暇のたびに何週間も連泊して遊びにいっていた(というか実家から逃げていた)が、中学生になるとほとんど行かなくなった。

 大学生になってからは、時間が出来たので年に何回か顔を出していたけれど、ことしは春休みがぐちゃぐちゃだったので、年明けにバイトとバイトの間にぬるっと顔を出したきりだった。

 それからは、外に出かけたがらなくなった、車いすに乗るようになった、車いすにも乗れなくなった、と状況だけは聞いていたので、GWに行けなかった分、コロナが落ち着いたら行こうと思っていたのだが、間に合わなかった。

 

 

 お通夜でも告別式でもぽろぽろ泣いたけれど、あれは、おじいちゃんが死んでしまって悲しかったというよりも、お葬式という空間に泣かされた気がしている。電灯で光る現代風の祭壇と、それっぽいオルゴール調の音楽(コブクロとか)と、遺影と、好きだった食べ物。

 わたしはきっと誰のお葬式でも泣くだろうと思った。そして同じように、誰の結婚式でも泣くのだ。たとえ知らない人の冠婚葬祭でも、空間が「ここは泣くところだよ」と語りかけてくれば、それに従って素直に泣くのだ。

 

 

 もう23年も生きているから、関わってきた人の数なんて数えられないぐらいたくさんいて、幼稚園から高校までの同級生だったり、同じ習い事に通っていた子供たちであったり、そのうちの何人かは死んでいてもおかしくない。

 実際に、昨年に高校の同級生の男子が労災の事故で亡くなった。顔は知っているが話したことはない。葬儀にも行っていないのに、今回のおじいちゃんのことよりも、そのときのほうがよっぽど引きずられた。たぶん、本人の望む形の死ではない可能性が大いにあった(=もっと生きていたかったかもしれない)と想像したからだと思う。

 今回は「そうかあ。まあそうよなあ。」とぼんやり納得しながら、お通夜と告別式に参列した。

 

 多少離れて生きている人のほうが、死は受け入れやすい。長く会わないでいると、自身の生活にその人物の「生」が影響を与えてくることがないので、同様に「死」も影響を与えてこない。だからすんなり受け入れられるのだ。

 つまり、父や母の死をすんなり受け入れるためには、今のうちから疎遠にしておかなければならないのでは……というアホみたいなことを考えながら、お坊さんのお経を聞いていた。

 

 あとは、あの豪華な祭壇も知らない誰かからの使いまわしなんだろうなとか、お坊さんってシフト制なんだろうかとか、お経を噛まないように唱えながら楽器をいいタイミングで鳴らす自主練を誰も死んでいないお寺でしているのかなとか、棺を大量生産している工場が日本のどこかにあるんだろうなとか、どうでもいいことを考えているうちにお葬式が終わった。

 

 

 

 葬儀中は、両親の死を受け入れるためには疎遠に……とか考えていたけれど、火葬を待っている間に母としょうもない口論(芸術に関して全くの素人なのに、なぜかときどきアカデミズムの芸術を学んでいるわたしを謎理論で論破しようとしてくる)になって、そういえばわたしはこの人の人格がこの世の誰よりも嫌いだったなと今までのいろいろな憎しみを思い出して、早く死んでほしいと思った。

 火葬待ちのロビーで肉親の死を願うとは思っていなかった。

 

 実家を出るまで、母のアスペルガー気質(素人判断なので"気質"と書かざるを得ない)と無自覚に歪んだ認知に散々苦しめられてきて、家を出てからは自ら距離を保って、悪くはないけど良くもないという関係をだましだましやっていたのだ。

 父にも弟にも嫌われていて、友達もおらず、ひとりぼっちで可哀想な母だと同情して、自分の中にある母への恨みに蓋をして連絡をとって、食事に出かけたり誕生日を祝ったりしていたが、そもそもわたしがこんな風(語り切れないので抽象化した)になったのは、あいつの人格が諸悪の根源だった。

 

 

 朝の告別式に向かう車の中で、「昨日買ったシュークリーム余ってるんやけど、食べる人~~?」と家族3人に向けて楽しそうに呼びかけてきたり、運転手の父にコンビニに寄ってもらったときに「うわ~!広い駐車場~!」とはしゃいだり、なんというか、まともな人間ではないのだ。

 おばあちゃんの妹の娘さん(=父のいとこ)の息子さんが今年から大学生らしく、わたしと弟が「ふたりとも大学生?うちの子と同じぐらいかな?」と聞かれたときに、すかさず「上の子は京都芸大で下の子は県立大です!」と早口で割り込んできたのも最悪だった。わたしと弟の学歴はおまえの手柄ではない。

 

 父のことは大好きだし、父もおばあちゃんもおじいちゃんもおじさんもみんな魅力的な人物だが、家族の中でこの人だけは異質だ。実際のところ血筋のつながらない唯一の人物なのでそれで当然なのだが、この人のもとに生まれてきたことを久しぶりに後悔した。スタート地点からすでに詰みが確定している人生を無責任に始めやがって(しかも無自覚)、と恨んでもしかたがないことをかつてのように恨みなおして、イライラしていた。

 

 

 最後はホテルで会食をしたが、途中からはイライラが止んで、次はこれもまた久しぶりの離人感がやってきて、せっかくおばあちゃんがいろいろ話してくれたのに、上の空であまり会話をつづけられなかった。

 感情と思考と肉体がばらばらで脳内に浮遊して、"無"だけを知覚している五感(本来ならばそんなことはあり得ない)があらゆる感情を抑圧して、その"無"の違和感に気を取られている間に時間がすぎていく。

 

 父と母と弟は車で帰ったが、わたしだけ電車で帰った。このまま同じ空間にいてはメンタルの調子を崩すだけだと思ったからだ。

 

 いちばんムカつくのは、わたしはこうして精神的な負荷で頭がいっぱいになっているのに、母は終始ご機嫌であることだった。

 母の世界では、母とそれに賛同するもの(者と物)だけが正しい。正しくないものは間違いとして隣に共存するのではなく、無意識的に排除される。排除されているものは存在しないことになるので、誰かにしわ寄せがきていることにももちろん気づかない。

 幸せそうな人生でうらやましい。ハッピーエンドがほとんど確定しているのだ。よく言えばポジティブだが、誰か(わたし、父、弟)を踏み台にしているから照らされているだけで、透き通った明るさが湧き出ているのではない。いうなれば光の白飛びだ。

 

 

 おじいちゃんのお葬式だったのに、ようやく押し込むことができはじめていた母への憎しみとの再会でいっぱいの記憶になってしまった。

 そして、23歳にもなって、親に苦しめられた可哀想な自分を慰めていることが情けない。

 おじいちゃんごめんね。

 

 晩年はほとんど耳が聞こえなくなって、ちゃんと会話を成立させられていたのも何年も前だけど、連泊すると毎回一度はくら寿司に連れて行ってくれたこと、おばあちゃんが出かけていて昼ご飯にカレーを作ってくれたのにめちゃくちゃ盛大に失敗したこと、遊びに行くと必ず「お~!いらっしゃ~い」といつも同じ抑揚で迎えてくれたこと、昼の3時半ぐらいになると「さあ、ゆうちゃん、一服の時間にしよか~」とおやつ休憩を呼んでくれたこと、記憶が褪せて思い出せなくなる前に、いろいろ思い出しておきます。

 

 84年間お疲れさまでした。おばあちゃんと結婚してくれたこと、お父さんとおじさんをこの世に生み落としてくれたこと、その3人からのやさしさがわたしに降りかかる源になってくれて、本当にありがとう。