幸せになることがいちばんの恩返し

 

 

 次の仕事が見つかっていないのに、職場を辞めてしまった。

 辞めた理由としては、いま精神状態が悪いからというよりも、これから正社員登用の条件を満たすための生活をするのが厳しくなりそうだからだ。そして今が現場の入れ替え期なので、新しいプロジェクトに関わるようになる前のこのタイミングで辞めるしかなかった。

 採用後に、試用期間中に普通運転免許を取らないと正社員になれないという条件を説明されて、しかも次の現場は不定休の夜勤が2ヶ月続くので、夜勤をこなしながら昼に教習所に通うことになってしまったのだ。

 ただでさえ双極性障害は不規則なリズムで生活することが推奨されないのに、不定休かつ夜勤かつ休みの日に教習所に通うというのは、健常な人でもまともにやるのがかなり難しいと思う。

 

 おそらく躁鬱を自覚する前の自分だったら何も考えずに挑戦していただろうし、どれだけしんどくても鬼の精神力で達成はしていただろうけれど、反動でものすごい鬱にもなってしまっていただろうし、こうやって後先のことを考えて早めに決断を下せるようになったことは、よい傾向だと思う。

 一方で、向こう見ずでアグレッシブな生き方を控えるようになったことは、寂しくもある。

 浪人も、一人暮らしも、転専攻も、すべて賭けの気概でやってのけたし、自分の人生を大きく変えてくれたのはいつも躁転だった。

 躁鬱を飼い慣らすということは、波風の立たない生き方を選ぶということだ。

 躁鬱的な生き方がアイデンティティの奥深くにまで食い込んでいるので、これを手放すということは自分の根っこをひっくり返すようなものであり、少し戸惑いがある。

 

 

 しばらく無職を謳歌したいものだが、なんせ貯金もなければ、障害年金も受け取っていないので、わりと真剣に詰んでいる。

 先日のコンカフェ卒業イベントで稼いだお金がそれなりにあるのが救いだ。それも来月の生活費に回せば一瞬でなくなってしまう。

 

 

 夜職はなんだかんだで5年続けた。キャバクラ、コンカフェ、ガールズバー、メンズエステ、チャットレディ、いろいろな業種をやってきたが、コンカフェがいちばん向いていたと思う。

 わたしはものすごく人間が嫌いだけれど、それと同じぐらい人間が大好きなんだろう。夜職のおかげで男も女も大嫌いになったし、男も女も大好きになった。

 お酒をいっしょに飲んでおしゃべりするだけの仕事ではあるが、「だけ」で括ってしまうにはもったいないほどのたくさんの経験を、たくさんの人に用意してもらった。それは何もおいしいご飯に連れて行ってもらうというような実利的なことに限らず、人を愛するということはどういうことなのか、素敵な人間とはいったいどんな人間なのか、いろいろなことを考えさせてくれる貴重な機会だった。

 わたしは本当に人に恵まれている。キモいオタクに粘着されることもあったけれど、大半は素敵なお客様だった。ものすごく有意義で楽しい時間だった。吐くほど飲んだり、変なおじさんに説教を食らったり、嫌なこともたくさんあったけれど、それ以上に得たものが大きい。

 

 

 自分が素晴らしい経験をしたからといって、心身ともにリスクが大きすぎる仕事なので、他人に勧める気はまったくないけれど、決して悪い仕事ではなかったなと思う。

 「生活を優先させるために効率的にお金を稼ぎたい」という動機だけで始めたこの仕事が、こんなにも精神的に素晴らしいものだったなんて、想像すらもしなかった。

 わたしに会いに来てくれていたすべてのお客様が、わたしに会う機会はなくなっても、どうかどこかで幸せに生きてくれていればいいなと心から願っている。本当にありがとうございました。おまえらがまるちゃんを好きでいてくれた以上に、おれはおまえらのことが大好きだよ。またどこかでばったり会えたら声をかけてね。

 

 

 わたしは本当に人に恵まれすぎていて、その人たちに何も返せていないことが心苦しい。

 わたしは人に寄りかかってばかりで、いつまで経っても自分の足で立てない。もちろん誰しもが多かれ少なかれ他人に依存していて、そもそも健全な人間関係というものは軽い相互依存の分散であるとはいえ、わたしは他人を搾取してばかりで、それに見合った価値のある何かしらをまったく提供できていない。

 どうすればいいのだろうか。これほどまでにたくさんの大きな愛をもらえる人生で、わたしがやるべきことは何なんだろうか。だらっと生きているだけではいけない気がする。

 

 きっと生きることを諦めずに幸せになることがいちばんの恩返しなのだろうな。どうしても自殺がしたくなったら、これまでわたしに愛を向けてくれた人たちのことを想って、なんとか踏ん張らなければならない。

 とにかく今は耐えるべきタイミングなのだろう。仕事がなくても、お金がなくても、めげずに生きていかなくちゃいけない。少しずつ前向きに舵をとってやっていく。

 

 

 この前向きな気持ちが躁転でないことを祈る。早く健康になりたいよ。

 

 

 

死ぬ勇気もないし、生きる気概もない

 

 

 

 会社でやることが何もないから(上司は何も指示を出してくれないし、勝手に何かをして怒られるほうが厄介なので)、ずっとネットサーフィンをしている。
青空文庫でいろいろな本を読む。自殺した作家の話ばかりが気になる。作家のWikipediaに飛んで、自殺のエピソードを片っ端から読む。そのまま心中事件や殺人事件のページに飛んで、死んだ人に思いを馳せている。
 死というものに限りなく近づこうとしたって死にたくなるだけだし、どうせ死なないのだから無駄な時間でしかないのだけれど、死というものの持つ莫大なエネルギーに引っ張られてしまう。ほとんど自傷行為のようだと思う。

 

 


 入社してたった2カ月ではあるが、転職活動をしている。面接時と入社後で条件が違うからだ。給料があまりにも低い。これでは人間らしい生活がままならない。
 この低賃金で生きていくのは、実家暮らしならまだしも、わたしは実家を頼れないから厳しい。頼るなと言われているわけではないし、母にはいつでも帰ってきなさいとは言われているけれど、どうせ帰ったって精神状態を悪くするだけなのだ。母は、今も昔も悪意がないからこそ「帰ってきなさい」と言えるのだろう。わたしが今でも苦しんでいることにまったく気づかないのだ。


 母はわたしが公立大を卒業したことで鼻が高々であるようだ。事あるごとに「あんたは公立大卒やからなあ」と言う。母は最終学歴こそ国立大の修士号ではあるが、学部は私立の通信大卒だ。自分にないものを持っている娘はさぞかし華やかに映るのだろう。母は学歴さえあれば自分の人生はもっと豊かであったはずだと信じてやまず、わたしに学歴をつけようとしたのだろうなと推測している。
 でも、心を病んでまで手に入れた学歴が何の意味を持つのだろう。


 社会は、学歴なんかよりも、すこやかな人材を求めている。浪人も休学も留年もしないストレート卒業で、新卒から職歴にブランクがなく、心身ともに健康な人間が求められているのだと、就職活動を通して強く実感した。
 浪人休学留年あり職歴なし精神疾患という肩書きが災いして、低賃金の重労働しか選択肢がないというのが、なんともわたしの人生をよく表しているなと思う。
 全部これまでのツケだ。
 母は、ヒステリーと暴力を用いてまでわたしの人生をよりよくしようとした。その結果がこれだ。とても皮肉が効いている。

 


 ただ、ここ数日で教育虐待や機能不全家族に関する本を数冊読んだのだけれど、昔よりは心が引っ張られなくなったように思う。そろそろ母の呪縛が解けてきたのかもしれない、と希望的観測をしている。
 でもそれは、先日ふいに露呈した父の現在進行形のおかしさが、母の過去の狂気を上書きしたからなのだろうとも思う。ひと段落したというよりも、問題の軸がずらされただけのような気がしている。


 帰省した際に言われた「いつまでそんな(過去の)こと言うてるねん」という父のことばがずっと突き刺さったまま抜けない。おまえからすれば過去のことなのだろうね。娘が後遺症とも言える過去のトラウマに今でも苦しんでいることなんて想像すらしたこともないのだろう。すべては地続きだというのに。
 憎しみが止まらない。家族のLINEグループを抜けて、父のLINEもブロックしようかなと思うけれど、それでいちいち理由を聞かれても(おそらく弟を介して詮索が入る)、もうわたしにはすべてを説明する気力なんて残っていないのだ。いまさらこの苦しみに気づいてほしいとも思わない。ひとりよがりな罪滅ぼしをするぐらいなら、もう関わらないでほしい。

 


 ただまあそれでも死なずに生きることを選んでいるのは自分の責任だし、もういい加減に親のせいにするのはやめようと思ってはいるものの、人生が行き詰まるたびに、自分の狂ったバックグラウンドが今のわたしをここに導いているのだなと思い知らされる。


 ピアノやバレエや水泳や英会話などの狂った数の習い事で友達と遊ばせてもらえなかったことも、夕食後にテレビを見ていたら「そんな暇があったら勉強しなさい」と殴られたことも、山積みになった中学受験用のテキストが終わるまで家から出してもらえなかったことも、五ツ木模試がC判定の高校は受験すらさせてもらえなかったことも、部活動をやめて勉強に専念するようにと交通費の支援がなくなったことも、芸大に行くと言ったら「うちに浪人生がいるなんて恥ずかしい」と罵倒されたことも、せっかく第一志望に合格したのに人間が怖くて引きこもるしかなく不登校になったことも、本当に自分がやりたいことが何なのかわからなくなって留年したことも、留年分の学費を払うためにアルバイトに夜職を選んだことも、ようやくやりたいことが見つかって大学院に進学したいと思ってもそもそもの生活がどうにもならなくなったことも、全部、全部地続きだ。


 そして、いつまでもそんなことを言って、前向きに生きることを検討しない自分のことも大嫌いだ。早く前向きになれよ。いつまでうじうじしているんだ。その間にも社会は回っているというのに。どんどん置いて行かれたって、いつまでも後ろ向きに生きることを選んでいるのは自分なのだから、自業自得だ。自分で自分の首を絞めている。

 

 


 人生の選択も対人関係も何もかもがうまくいかない。破滅する不健全な恋愛と、その場しのぎの消費的な友情ばかりしている。支配するか依存するかの二択しかわからない。
 加害性にまみれた被害者気取り。もう誰とも関わらないほうがいいのかもしれない。わたしはすぐにそうやって白黒思考に走る。だけど宙ぶらりんがいちばん苦しい。すべてを拒絶できればどれほど楽だろうか。そんな強さも持ち合わせていないくせに、ない理想ばかりを追いかけて、現実から目を逸らしつづける。


 今まで傷つけてきたたくさんの人たちに謝りたい。許されるとは思っていないけれど、謝るというコミュニケーションを取れることが自分に残された唯一の人間らしさだと思っている。いや、人間らしくいさせてほしいから謝りたいだなんてとんでもない自分中心主義だな。許すか許さないかを決めるのは、わたしの人生に巻き込まれた当事者たちだ。それはわたしが謝ろうが消えようが変わらない。

 

 


 あー本当に苦しい。人生を一時停止させたい。仕事も人間関係も何もかもをやめて休みたい。だけど休んでいるうちにも社会は回る。立ち止まっている間にいよいよもう追いつけなくなってしまう。だからしがみつくしかない。スタートダッシュの残り滓みたいなエネルギーの惰性だけで動いている。


 本当に、どうにもならなくなってきた。死ぬ勇気もないし、生きる気概もない。とにかく苦しい。

 

 

 

お前にとっては終わったことかもしれないけれど

 

 実家に帰ると精神状態が最悪になるのは毎度のことだ。それでもわたしは、元気な顔を見せに帰って、親の作ったごはんをおいしそうに食べることが親孝行だと思っているので、お盆休みということで今回も懲りずに帰省した。

 

 母はほとんど無害だった。わたしは最近また恋愛で大失敗をしてしまったのだけれど、「あんたは大丈夫や」と励ましてくれた。わたしのことをほとんど理解していないからこそ投げられる無関心なことばも、時には救いになる。

 人生がうまくいかないことはわたしが一番しんどいし、責めるでもなく干渉するでもない無関心な母の態度は、今のわたしにはとてもありがたいものだった。

 

 

 今回、厄介だったのは父のほうだった。わたしがまた恋愛で失敗したことを責めた。

 失敗したことを話すと(なるべく言いたくはなかったが、話さざるを得ない流れだった)、父は「だから言うたやろ」「お前はいつも親の忠告を無視する」と言った。

 独りよがりで誰にも相談せずに物事を事後報告で進めて破滅するわたしを許せないようだった。

 

 そもそも、わたしの心は親に閉じている。独りよがりも何も、はじめから期待も信用もしていないのだ。それは幼少期の頃からずっとそうだ。いちばん助けてほしいときに助けてくれなかった人を、どうして頼ることができようか。

 どうせ助けを求めたところで、そんなことになったお前が悪いと否定されるだけなのだ。否定されるのをわかっていて助けを求めるはずがない。それならば干渉されないように一人でやる。

 どうにも立ち行かなくなったところで、困るのはわたしだ。親には関係ない。

 

 父親が心配しているのはわかる。愛する娘が自ら破滅まっしぐらに進んでいくのを見ているのはつらいと思う。しかもわたしはそれを何度もやっている。

 だけどわたしはこうやってしか生きられないのだ。今、生きている実感を得るために必死で、後先のことなど考える暇もない。慎重に生きたところで幸せになれる保証もないのだから、衝動で生きることをいつも選んでいる。

 エリート街道を慎重に生きることを強いてきた母を裏切って初めて、わたしは自分の人生を取り返したのだ。親の言うとおりに生きることによって発生する不具合を教えたのは、誰でもない親だ。

 他責思考でしかないけれど、今のどうしようもないわたしを作り上げた要素に、かつての親の仕打ちがあることは否めない。

 

 

 父親は、かつてのわたしを救わなかったこと、そしてわたしが精神を病んだことをとても悔やんでいる。俺が死ぬまで背負う罪だと言っていた。

 だからこそ正しさに導きたいのだろうし、どう考えても幸せにはなれないルートばかりを選ぶわたしを見て苛立つのだろう。

 

 父親は、「いつまで後先のことを考えへん子供みたいな生き方してるねん」と説教した。「子供時代に子供らしく生きることを許さなかった人間がそれを言うな」と返すと、「いつまでそんなこと言うてるねん」と叱られた。

 これが本当につらかった。

 わたしを救わなかったことを懺悔している父親からすれば、わたしの苦しみは過去のものなのだろう。けれど、わたしにとってはまったく過去のことではない。すべては地続きだ。今でも苦しい。アダルトチルドレン愛着障害境界性人格障害。どれひとつとして解決していない(かなりマシにはなってきているが)。これらは正直、躁鬱やADHDよりもずっとしんどい。

 

 父親は元から共感性に欠ける人で、相手の立場になって考えることが苦手だ。人と人は究極的なところでは分かり合えないと思っていて、それ自体はべつに間違ってはいないのだけれど、それがエスカレートしてわかろうとしなくてもいいと思っているように感じる。

 そして、親である立場を利用したポジショントーク気味な人でもある。他愛もない会話よりも、説教の方がやや多い。

 共感性の欠けたポジショントークほど精神衛生に悪いものはない。権威的な正論。正論がいつでも正しいとは限らない。正しくない選択に起因する感情に寄り添って、その感情の根源を紐解くことに協力することが必要なときもある。

 

 

 わたしは、しばらくは上記の発言を許せないだろう。

 さんざん無視してきたわたしの絶えない苦しみを、「そんなこと」で片付ける人間が、わたしを救えるはずがないのだ。お前にとっては終わったことかもしれないけれど、わたしは今でも後遺症が苦しくて、うまく生きられなくて、死にたくて、それでも死ぬわけにはいかなくて、なんとか生きている。

 それをちっとも想像しようとしたこともないくせに、「お前には幸せになってほしいんや」などと説教されたって、無責任すぎてうんざりするだけだ。

 父親がわたしのことに必死になればなるほど、わたしの心には悪影響で、わたしはますます心を閉じる。

 

 

 暴力的な母のヤバさに隠れていたけれど、父もかなりヤバい人なのかもしれないと気づいた。そもそも虐待を見て見ぬふりをしてきた人に、まともさを期待するほうが間違っているのかもしれない。

 だけど父がわたしをちょっとでも楽にしようと尽力してくれているのも知っている。父はわたしの大好きなバンド・Galileo Galileiのファンクラブに入っていて、大阪のライブには必ずいい整理番号で連れて行ってくれる。1~2ヶ月に一度、地方都市までドライブで連れて行ってくれて、喫茶店や古着屋の新規開拓に協力してくれる。

 

 愛されていないわけではない。ただ愛の表明の仕方がわからないだけだ。だから疎遠になれない。疎遠にすることは、今わたしに向けてくれている愛を無碍にすることに他ならない。

 だけど、そうやって不器用な愛を表明してくれるたびに、今更遅いよ、と思ってしまうのも事実だ。トラウマも、異常をきたした精神も、今になってやさしくされたところで元には戻らない。

 こんなに今と過去がちぐはぐならば、むしろずっとおかしくあってくれたほうが、親を責めることで苦しみの置き場ができて楽なのに、と思う。

 

 

 親との距離感は本当に難しい。ある程度は定まったと思っていたけれど、そうでもなかったようだ。

 離れるのも苦しい、近寄るのも苦しい、宙ぶらりんでいるのも苦しい。何を選んでも苦しい。

 早く助かりたい。

 

 

 

わたしでなくてもいい誰かになってしまいたくない

 

 

 母と食事に行った。会うのは4ヶ月ぶりだった。

 わたしの記憶の中にいるヒステリックで会話のできない母はもうそこにいなくて、ただただ穏やかなよく笑うおばさんという感じだった。

 記憶の母と現実の母が違うことにはもうずいぶん慣れた。ボコボコにされていた頃の自分の悲しみの置き場に困ることも減った。目の前の母を愛することに徹していられている。

 自分の心の底の部分がどんどん穏やかになっているのを感じる。いい傾向だと思う。怒るのは疲れるから。なるべく怒らないで生きていたい。

 

 しかし、なるべく怒りたくはないけれど、怒りという感情が薄くなることを残念に思う自分もいる。

 怒りという感情は間違いなく自分らしさを構成するものだった。怒るたびに敵は増えるし、他人に向けた怒りの刃がふとした瞬間に自分に向いて苦しくなることも多々あったけれど、理不尽なことに理不尽だと言って、自ら自身の生きやすさを手に入れてかかる自分のことも好きだった。

 丸くなったと言われるのは(そこに悪意がなくても)ちょっと悔しい。なんだか上流から下流に行くにしたがってまんまるとした形になっていく石のようで、あれだけ威張っていたのに自然の原理には逆らえなかったのかと、結局自分も型にはまった生き方をしてしまうのだな、と思う。

 

 フォロワーやウォッチャーが増えたことによって、自分の考えていることが人の目に晒される機会が多くなって、価値観がゆるやかに変わっていくことは、喜ばしくもあるけれど悲しくもある。

 このままどんどん当たり障りのないことしか言えなくなっていくのかな、と思うと怖い。自分の芯を見失いそうになる。世界に対して都合のいいことだけを言う、わたしでなくてもいい誰かになってしまいたくない。

 

 

 

 マシュマロに恋愛相談がよく届くことについて、縁を切ったかつての友人に「ろくでもない恋愛ばっかりしてるくせによく偉そうなことを言えるな」と陰で揶揄されていたことがずっと忘れられない。本当にその通りだと思う(ただしそれは他人がとやかく言うべきことではないので許してはいない)。

 

 これはさっき気づいたのだけれど、わたしはマシュマロに届く質問について他人事でありすぎた。当事者性に欠けていた。他人事だから好き勝手言えるのだ。

 相談者は第三者の客観的な視点が欲しくてマシュマロを送ってくるのだろうけれど、もっと寄り添って考えることが必要なのではないかと思った。

 もちろんそれで自分が何か得するわけではない。金銭も発生しないし、インターネットで得られる信用なんてくだらない承認欲求ぐらいしか満たしてくれないし、どこまで親身になるかというのは線引きが難しい。気持ちを入れすぎるとわたしのほうが破滅してしまう。

 けれど、それにしても返信が作業的になっていたことは事実だ。今のわたしは、同じような意味の内容をことばを変えて繰り返しているだけである。もっとひとつひとつのマシュマロに真摯に向き合って、自分の編んだことばに責任を負えるようになりたいと思う。

 

 かつての友人が言ったように、本当に他人の相談に乗っている場合ではないぐらいにろくでもない恋愛ばかりしているのだけれど、わたしが悩んでいる様子の一部始終を見ている友人は、「まうちゃんが一番幸せになれる決断なら他の人間がどうなってもいい」と言ってくれた。こんなにもやさしいことばをかけてくれる友達がいるだけで、わたしはもうすでに幸せ者だと思う。

 しかし強欲なので、恋愛の面でも幸せになりたいと思ってしまうのだ。わたしは本当に幸せになれるのだろうか。そもそも幸せって何なんだろう。いっときは幸せを感じていても、時間が経つとそれに慣れてしまって、幸せでないところを探すようになってしまう自分が本当に嫌だ。

 幸せになるって難しい。

 

 

 

 最近はそんな感じのことを日々考えている。社会人になると、考えるトピックは自ら探しに行かないと見つからない。同じような毎日で、考えることをサボりそうになる。

 

 今日、母と食べたフルーツサンドはとてもおいしかった。阪急三番街の地下2階にあるフルーツパーラー。順番は逆だろうと思いつつも、そのあとフードホールで牛タン定食を食べた。嫌煙家の母との解散後、大阪駅前4ビルで喫茶店を新規開拓した。

 なんだかんだ充実はしていた気がするけれど、どこかまだ虚しさも残っている。とはいえ特にやりたいこともない。お金も行くあてもないので何もできない。起きていても腹が減るだけなので、寝るしかないなあ。

 おやすみなさい。

 

 

 

親を許すとはどういうことなのだろう

 

 

 先日、知人に話の流れで「でも、わたしママのことそんなに嫌いじゃないし……」と言ったところ、「愛されてないのに?」とド直球火の玉ストレートが飛んできて、それがブッ刺さったまま抜けなくなっている。その通りすぎて何も言い返せなかった。

 

 母がわたしを愛していたのか問題については今でも頭を抱えることがある。

 

 幼少期から今に至るまで、母がわたしに愛のようなものを向けてくれるとき、母が見ているわたしは必ず”優秀”で”立派で”自慢”の娘なのだ。

 母にはたまに会う(ようにしている)のだが、そのたびに必ずわたしの幼少期の武勇伝を話して褒めちぎる。「あんたは昔から優秀やってなあ、」という枕詞とともに始まる、わたし自身は記憶が曖昧なエピソードの数々。わたしが英検二級を中2で取った話は、10年以上擦られつづけている。

 

 優秀な成績を取ったり、試験に合格したりなど、わたしが勉学の方面で何かを達成したときだけは優しい母だった。そういうときだけは、新しい服や漫画を買ってくれたり、おいしいものを食べに連れて行ってくれた。

 それ以外のときは、殴られたり、罵倒されたり、部屋に閉じ込められたりして過ごしていた。

 

 

 母が愛のようなものを向けている対象としてのわたしは、わたしという人間そのものではない。わたしの産みの親として、娘が優秀であることを通して、母は自分自身を評価しなおしているのだ。

 わたしが立派になればなるほど、母は自分を評価する軸を増やす。わたしを愛しているのではなく、わたし(という娘を立派に育てた自分自身)を愛しているのだ。

 わたしという存在は、あくまでも母が自分に自信を持つための実験材料でしかない。そして、その実験は成功のみが許されており、失敗しようものなら身の安全を奪われるのだった。

 

 

 そんな母も今年で56歳になる。もう人生の半分は過ぎていて、どちらかというと死のほうが近い。

 実家を出てからは、こちらが距離感を選ぶことができるので、ずいぶん穏やかな関係を維持している。小学生の頃は、大人になったら絶対にこいつを殺してやると思っていたけれど、いざ大人になってみると、そんな気は起きなくなった。

 もう許そう、と思ってしまう。死ぬまで許せないのは嫌だな、と思う。でも、許すってなんだろう、と思う。

 

 親を許すとはどういうことなのだろう。

 

 これまで受けてきた最悪な仕打ちは、なかったことにはできない。典型的なアダルトチルドレン愛着障害である自分の気質はごまかせない。誰がどう見ても機能不全家庭上がりの性格をしている。

 でも、いまさら怒りや憎しみの矛先を親に向けようとも思わない。怒ったり憎んだりするのは疲れる。特に、親に対するそれは数えはじめたらキリがない。振り返ればどこまでも遡れるし、探せばいくらでも新しいものが見つかる。

 怒りや憎しみはなくなったけれど、ときどき「ママに愛されたかったなあ」と泣いてしまうのだ。親からの愛情を諦めきれないのは、心の底では許せていないからなんじゃないかと思う。

 

 

 本当は、衝動のままに怒ったり憎んだりして、それを直接ぶつけて「ごめんね」と言われたい。わたしの心の中で眠ったままの幼いわたしを思い切り抱きしめてほしい。子供に話しかけるようなやさしい声で「あなたが誰よりも大事だよ」と言ってほしい。

 わたしが母を嫌いになれないのは、母にわたしを嫌いになってほしくないから、そしてあわよくば愛してほしいからだ。

 

 きっと母はわたしを愛してくれることはないだろうなと思う。母自身はわたしを愛しているつもりなのだ。娘を通して自分を愛することと、娘を他人として愛することの区別がついていない。26年間そうだったのだから、きっとこの先もそうだろう。

 そしてわたしは、また母に愛されなかった夢を見て、泣きながら目覚めるのだろう。

 

 

 

デカ愛ちゃん社会人編

 

 

 デカ愛ちゃん社会人編のスタートから約1週間が経った。

 まだ1週間しか経っていないので、社会人とは何たるかを完全に理解したわけではないけれど、確かに社会人になると1週間が過ぎるスピードが早い。あっという間に年を取りそうだ。特に土日の2日間は本当に一瞬のようだった。みんなが土日を大好きな理由がわかった。

 

 社会人のいちばんよいところは、収入が安定しているところだ。わたしはこれまでのアルバイトがほとんどずっと夜職だったので、収入が不安定で、とにかく週6~7でシフトを入れまくることで貧困を回避していたのだけれど、社会人は固定給だから週6~7も働く必要はない(半年の試用期間が終わればおそらく休日出勤はあると思う)。

 閑散期にお茶を引くだとか、シフトをカットされるだとか、そういう心配がない。休日を設けることに収入が減るという不安をおぼえなくていい。欠勤さえしなければ、まあ生活はできるかなぐらいのお金をもらえる。

 しかもわたしはクソザコ夜職バイトだったから、収入が極端に下がるわけではない。繁忙期に比べれば稼ぎは少なくなるが、閑散期に比べればむしろ昼職のほうが多いぐらいだ。

 

 働いたら働いた分だけ賃金が発生することのありがたみは大きい。

 それが結構メンタルの安定に繋がっていて、ここ数年で今がいちばん精神的に安定しているように感じる。財布の不安は心の不安なのだなとつくづく実感している。

 収入とメンタルの安定度が比例するタイプの人は、夜職よりも昼職の方が向いていると思う。もしくは月額固定のパパ活。まあでもパパ活は水商売と同じく繋ぎ止めることに気力を持っていかれるだろうし、それなら毎日とにかく出社だけはしておくほうがマシだとわたしは思う。客の意思はコントロールできないけれど、自分の肉体を会社に向かわせることはできる。

 

 

 

 業種はざっくり言うと建築や店舗ディスプレイなどを扱う仕事だ。絶賛見習い中なので、この先どんなことが自分の仕事になるのかよくわかっていない。まあでも謎にやる気だけはある。

 多くの社員が3年ぐらいで辞めるらしい。これに関してはこの会社がヤバいのか、業界がヤバいのか、もしくはどちらもなのか、この身で実験してみようと思う。わたしはもうとにかく逆張りオタクなので、なるべくやめないようにしていきたい。

 

 友人らには、「美術とは全然関係ない仕事に就いたね」と言われる。「もったいない」とも言われる。でもわたしはこれで正しかったと思う。美術やデザインの仕事をしていたら、仕事がうまくいかなかったりすると、アイデンティティが揺らいで、自尊心が傷ついてしまっていたかもしれないからだ。

 ただでさえ精神的に安定して暮らすことに難がある属性なので、アイデンティティに直結しない仕事を選んだほうが、長い目で見ればうまくやっていけるような気がする。

 今のところはこれが最善策だっただろうと思うし、これを本当の最善策にするのはこれからのわたしだ。なんとかやっていきたい。

 

 

 

 あと、ごはんをめちゃくちゃ食べるようになった。朝昼晩しっかり1日3食、これまでより1.5倍ぐらい食べるようになっている。どちらかというとデスクワークではないがゆえにそれなりに体力を使うからなのか、労働時間に拘束されていることへのストレス反応なのかはわからないけれど、本当に食欲が止まらない。肉がうますぎる。

 しかし、入社直後の健康診断で体重を測ったところ、とんでもない数値を叩き出していたので、毎週日曜日にジムに行くことにした。お手帳パワーで市立体育館のジムがタダで使えるというのだ。使えるものはドシドシ使っていく。大阪市、ありがとう……。

 

 土日が休みだと、土曜日は他人との予定を入れて、日曜日は自分のために使うという休日の使い分けができて嬉しい。

 夜職の頃は1日休んだだけで不安になっていたので、こんなにも清々しい気持ちで休んでもいいのかと驚く。しかも学生の頃は変に意識だけが高く、常に何かをインプットしたりアウトプットしたりしなければならないという強迫観念に駆られており、週1の休みを寝潰して終えた日には、何も生産的なことをしていないことへの罪悪感でたまらなくなっていたのだが、それがなくなった。休みの過ごし方が完全に自由になった。これからは、作りたいときに作ればいいし、寝たいときに寝ればいい。最高である。

 

 

 

 こんな感じで、デカ愛ちゃん社会人編は順調に進んでいる。今のところはパワハラ・セクハラ上司はいないどころか、上司も事務員さんも取引先の人も、みんな親切でいい人だ。週末には歓迎会を開いてもらえる。なるべく長く楽しくやっていきたい。

 

 

 

少しずつ棘がなくなって、無難なものに回収されていく

 

 

 そういえばさっきの記事が26歳になって初めて更新したブログだったので、仕切り直して26歳の始まりらしい(?)記事を書こうと思う。

 昨年度、ようやく周囲に3年遅れで大学を卒業した。長い闘いだった。6年通った。浪人を合わせると7年かかった。それらを振り返ろうと思う。

 

 <19歳>

 親の反対を押し切って芸大受験に挑んだ。

 正直、不真面目な浪人生だったと思う。ボーダー気質が猛威を奮うのもこの頃が始まりだ。それまではただの恋多き女(笑)だったのだが、モラハラ気質なセフレに爆裂に依存して、ホテル代を全額負担してまで会ってもらったり、予備校で放課後に鉛筆を削る用のカッターでリストカットしたりしていた。今思えばおもしれー女である。当時はそれでも全力で生きていたのだ。

 1年でぬるっと合格したので、まあこれらの不真面目な受験生生活も許されただろう。

 

 

 <20歳>

 人生を狂わせるほどの大恋愛をした。簡潔に言えば、共依存から相手が醒めて、見捨てられる形で別れたのだが、この呪縛から逃れるのに4年ほどかかった。

 「依存先を1つにするから傷つくのであって、依存先を分散すれば傷つかない」という理論でバカマンコになったのもこの年だった。半年ほど遊びまくって、その中で引っ掛けてしまった男と交際に至る。しかし、バカマンコがやめられずに、浮気しまくる最悪の女となり別れる。

 京都に引っ越したが、大学にはあまり行かなくなった。躁鬱の投薬治療を本格的に始めた。木屋町のキャバクラで働いていた。

 

 

 <21~22歳>

 あまり記憶がない。ハライチの岩井氏に顔が似すぎている男と交際して、バカマンコは次第に落ち着くようになる。しかし、彼が”理解のある彼くん”になってくれないことに苦しむ。

 復学して専攻を変えたところでコロナ禍にぶち当たる。不登校だったので、大学が家に来てくれることに大喜びし、素晴らしい出席率とレポートで、最高の成績をおさめるようになる。

 大学に行く手間が省けたので、鬼のようにコンカフェとラーメン屋に出勤した。

 

 

 <23歳>

 京都の大学生界隈(?)に属するようになり、デルタでお酒を飲みまくる。

 働いていたコンカフェのオーナーが捕まって、店が潰れたため、経済的に不安定になる。

 ハライチ岩井似と別れたところでマッチングアプリに見切りをつける。数ヶ月後に、Twitterのフォロワー(無職)と交際を始める。統合失調症の兆しがある人で、被害妄想によってしきりに浮気を疑われるようになり、強制的にバカマンコを終了させられる(結果的に言えばこの強制終了に今でも救われている)。

 

 

 <24歳>

 これもまたあまり記憶がない。Twitterの規模が大きくなりはじめ、「デカ愛ちゃん」というコンテンツが一人歩きするようになる。

 度重なる被害妄想による、罪のない責められに辟易して別れると、自殺未遂をされた。さすがに恋愛に疲れた。

 またもや、働いていたコンカフェが経営不振で潰れる。店選びがヘタクソなのか?

 

 

 <25歳>

 コロナ禍が明けはじめてキャバクラを再開しようかと思ったが、いろいろあって結局メンエスで働くようになる。

 大学院進学などがどうでもよくなり、貯金をホストクラブにぶっ込むも、3ヶ月で枯れた。ホス狂はずっとこの生活をしているのだと思うとすごい。

 ギリギリで大学を卒業して、京都を出る。貯金がなくなってから、やっぱり大学院に行きたくなる。貯金をスタートし、フリーターを始めるが、実家を出てフリーターをしながら貯金するのは無理だと気づく。就活を始める。

 

 

 ざっと振り返るとこんな感じで、男とお金に振り回されまくった7年間だった。パワー系メンヘラにガクチカなんてものはない。学生生活だけでなく、生きること全てに力を入れているのだから。

 

 26年目はどうなるのだろう。変な恋愛もしなくなったし、就活に成功すればお金に振り回されることもなくなる。

 わたしの人生も少しずつ棘がなくなって、無難なものに回収されていくのだと思うと、なんとも寂しい気持ちになる。本当はもっと破天荒に生きていたいのだけれど、どうにもならなくなったときに戻ってくるのが難しくなる。学生時代とは違って、親から自立しなければならないので、ひとまずは経済的安定を目指そうと思う。

 

 強く生きるぞ〜!