飛び出し坊やという公共彫刻の公共性

 

 ここでは、交差点など交通事故の起きやすい道路上に置かれる、走り出す少年の形を模した立て看板のうち、東近江市社会福祉協議会(旧・八日市市社会福祉協議会)が発案して、久田工業が生産した写真①と、そこから派生したものを「飛び出し坊や」と呼ぶ。写真①の飛び出し坊やは昭和48年から生産されはじめ、ファンの間では「とび太くん(フルネーム:飛出とび太)」「0系」とも呼ばれている。

 当時の日本は高度経済成長期にあり、自家用車が急速に普及して、見通しの悪い交差点などから飛び出す子供との接触事故が多発し、交通戦争と呼ばれるまでに発展していたため、ドライバーに事故防止を促す目的で設置されるようになった。飛び出し坊やの設置や管理は主に地元のPTAや町内会が行っている。

 0系のとび太くんをモチーフに、全国ではさまざまな髪型や表情、ファッションの飛び出し坊やが見られる。場合によっては著作権法に抵触するのではないかと思われる既成のキャラクターが飛び出し坊やの役割を担っていることもある(写真②)。

 

 私が飛び出し坊やを公共彫刻だと定義する理由は3点ある。

 

 まず1点目は、公共と定義される空間で生活をしている多くの人間にとって、飛び出し坊やの看板は飛び出しによる交通事故への警告を意味するという共通認識があると考えられるという点にある。

 私は制作において京都市内をフィールドワークで歩き回っているが、飛び出し坊やはまず学校付近の交差点や、そこから繋がる通学路に見られることが多い。学校という公共の空間に通う子供たちは、通学しながら飛び出し坊やの存在を目にしているだろうし、全てのケースとは言い切れないが、飛び出し坊やにはしばしば「飛び出し注意」という文字が書かれている(写真③)。子供たちは通学するうちに、この飛び出し坊やが交通事故を防ぐ目的で置かれていることを学習するだろう。

 私たちは、子供の頃からこの飛び出し坊やが交通事故を防ぐ意識を高めるために存在することを共通認識しているのではないだろうか。

 

 2点目は、地元のPTAや町内会が設置・管理を行っているという点にある。

 飛び出し坊やは、著名な彫刻家やデザイナーによる制作ではなく、多くの場合は、久田工業でとび太くん型に型抜きされたベニヤ板に各自治体がフリーで図柄を描いたり、独自で用意したベニヤ板にペンキで描いたものを人型にくり抜いたり、とび太くんをプレスで大量に製造する事業者に依頼することで手配されている。

 飛び出し坊やという看板は、見る側が共通して交通事故の防止への意識を高めるだけでなく、作る側もPTAや町内会という私的ではない公共の団体であるという点で、彫刻として公共性が高いと考えられる。

 

 3点目は、飛び出し坊やに一定数のファンがいるという点にある。

 そもそも、上記の「0系」という呼び名はイラストレーターのみうらじゅんによって命名され、その後テレビやイベントなどで徐々に名前が広まることとなった。みうらじゅんは、作品として「飛び出さない坊や大全 第一巻」というものをほぼ日刊イトイ新聞で紹介している(坊やが飛び出すから事故が起きてしまうので、坊やの方も飛び出すなよという意味が「飛び出さない坊や」には込められている)。

 その後、Mahorova社がとび太くんに目をつけ、「とびだしくん」として商標登録し、携帯ストラップやTシャツなどのキャラクターグッズ販売を始めた。そして、Mahorovaがグッズを発注していた製作工場が「とびだしくん」の着ぐるみを製作し、いろいろな地方のイベントに登場するようになり、一躍ブレイクした。2014年には、「国宝みうらじゅんいやげもの展」(4/18~5/14@梅田LOFT)において全国各地から集められた飛び出さない坊やなどの写真が展示され、サイン会イベントでは着ぐるみを着た飛び出し坊やが共演し、大勢のファンが殺到した。また、このコラボイベントでは、みうらじゅん×飛び出し坊やのオリジナルグッズも販売されている。

 このように、飛び出し坊やは、ただの街の交通安全啓発看板の役割に留まらず、大衆に愛される公共のキャラクターとして機能している。

 

 以上の「交通事故防止を意味するという共通認識を人々が持っている」、「見る側のみならず作る側も公共団体である」「大衆に愛される公共のキャラクターである」という3つの点から、私は飛び出し坊やを公共彫刻として考える。

 

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写真①

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写真②

写真③

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写真③

参考リンク

 

お坊さんに天使!?増殖し続ける「飛び出し坊や」、発祥の地を訪ねてみた。|eoお出かけ

https://eonet.jp/travel/chousa/170523/p2.html

 

ほぼ日刊イトイ新聞-みうらじゅんに訊け!───この島国篇───

https://www.1101.com/shimaguni/jun/2008-06-15.html

 

あの「飛び出し坊や」ブレイクのきっかけは、工場の暴走だった?!<dot.>|AERA dot.(アエラドット)

https://dot.asahi.com/dot/2015101600081.html?page=1

 

みうらじゅん|Mahorova

http://www.mahorova.com/tag/みうらじゅん



映画「うみべの女の子」を観た

 

 浅野いにおの漫画が原作の映画「うみべの女の子」を観た。

 ぴえん地雷系女と黒マッシュウルフ女殴りそう男のアベックや、つま先からてっぺんまで古着で固めた個体×2のアベックとのエンカウントを期待していたが、ド平日のド昼間に、しかも京都の新風館というスターバックスの上位互換みたいなビルの地下のシネマで見たために、そういった類の人々は見られなかった。

 

 わたしはどうしようもなく浅野いにおのファンである。自ら積極的に浅野いにおファンを名乗ることは憚られるが、「人生で一番影響を受けた漫画家は?」と聞かれたら「浅野いにおです」と即答するだろう(もちろんそのたびにその場で衣服を剥がれて素っ裸になることよりもさらに上位の恥ずかしさに見舞われるに違いない)。
 彼のほとんどの書籍をコンプリートしている(「素晴らしい世界」と「日曜、午後、六時半。」のみ未入手である)。現在連載中のデッドデッドモンスターズ・デデデデデストラクションも毎回Tシャツ特典付きを買うし、東京で行われていた浅野いにお展にもわざわざ京都から出向いた(残念なことに、のちに大阪に巡回した)。

 

 そんな中で、「うみべの女の子」はわたしにとってとりわけ特別な作品だ。なぜなら、いちばんはじめに手にした浅野いにおの書籍がこの作品だからである。
 と言っても、これは半ば事故のような出会いで、浅野いにおを読もうとして浅野いにおを読んだわけではない。
 なんとなく美術に憧れていた中学2年生のわたしは、表紙の水彩画に一目惚れして、なけなしのお小遣いをはたいて本屋で買った。

 

 表紙と中身のギャップ(もはやギャップと形容するのも許しがたいほどの乖離)に気づいた時にはもう自分の部屋にいた。しかもバカなことに、全2巻ということを知らずに、第2巻だけを買ってきたのだった。

 一通り読んでも何もわからなかった。そもそも、その半年前までショタコン腐女子を拗らせていたので、女と男がやるらしいセックスというものすらもよく知らなかった。当時は従順な14歳だったので、アフィリエイトだらけのブログにたどり着けば無断転載されたR-18の同人誌が読めるということも知らなかった。

 

 話を戻す。そんな特別な作品が映画化されたのだから、わたしは見に行かなければならなかった。もはや義務だ。ワクチンの副作用でダウンしていた翌日に、左腕はまだ上がらないままではあったが予定通り見に行った。

 以下、ネタバレが続くので、あなたがこれから話の内容を知らない上に観に行きたいというタイプの人であれば、この記事のここから先は読み進めないことをおすすめする。あなたが話の内容は知っているが観に行くかどうか迷っているというのであれば(そのような人物は存在するのか?)は、読んでも読まなくてもいいだろう。あなたがもうすでに観に行ったというのであれば、読んでみてもいいかもしれない。読む価値があるだろうと予想できるのは、もうすでに観に行った上で、原作漫画のセリフを暗記しているほどに熱狂的なファンだ。

 ちなみに、わたしは原作漫画のセリフをほとんど暗記しているファンである。

 

 もっと言うと、磯辺恵介の厄介オタクおばさんである(おばさんというのは、世間一般の評価軸ではなく、磯辺恵介の視点からの評価である)。

 わたしは磯辺恵介のセリフをほとんど暗記している。もはや彼との出会いから10年も経っているので、好きだから暗記したのか、暗記したから好きになったのか、もうわからなくなっているが、一つだけ言えるのは、わたしは、磯辺恵介の生活を支えるママ活おばさんになりたいということだ。そのためならば何歳まででも夜職に従事できる。いや、彼の家は裕福なので、そんな存在は全く必要ないわけが……。

 映画「うみべの女の子」は磯辺恵介のセリフをあまりにもカットしすぎで、個人的に不完全燃焼であった。わたしは普段から映画も映画評論もあまり観ないので、このように原作と比べた評価が映画評論として正しいのかはわからない。

 ただ、磯辺恵介の人格を特によく説明するであろうセリフが2つもカットされていたので、磯辺恵介の厄介オタクおばさんとしては、「磯辺のかわいさはこんなもんじゃないよ〜〜〜(泣)」とがっかりせざるを得なかった。

 原作の磯辺恵介を愛するがあまりに、期待値が高すぎたのだ。映画は何も悪くない。期待しすぎたわたしが悪い。漫画と映画では媒体が違うので、原作と翻案が違って当然である。わたしが悪いのだ。

 

 

 一つ目は、「助けて。」。

 自殺した兄が運営していたブログ(映画ではTwitterになっている)を、兄の自殺後も磯辺恵介は兄のふりをして更新していたのだが、勘の鋭いファンが「くだらない記事が増えたり、露骨にアフィリエイトが増えたり、ブログの劣化が目につきます。」というコメントを残すシーンだ。

 彼はここで、兄の自殺の理由に始まり、兄になりすましてブログを更新していた経緯を文字に起こす。
 そこでは、兄がいじめを受けて自殺したこと、弟(磯辺恵介)の誕生日に自殺したことに何かの意味が込められていたのではないかと類推していること、ヘルプサインに気づけずに救えなかった兄の幻覚を見るほどにずっと呪われていること、インターネット上の兄の人格が消えてしまうということは兄の存在を孤独に抱えて生きていくことを意味するという事実が怖くてブログを更新し続けていること、そういった生活に限界が来ていることなどを独白する。

 彼は、その独白を「助けて。」で締めくくり、しばらくして我に返り、全て削除し、「ただの暇つぶしですよw」と返信するが、わたしはこの「助けて。」に不器用な磯辺恵介の魂の悲痛な叫びが込められていると考察している。

 

 磯辺恵介は、助かりたいのだ。何もかもから。
 救えなかった兄の呪いからも、家族ごっこみたいな家族からも、無自覚な悪意にまみれた人間だらけの社会(学校)からも、積極的に幸せを求めて歩き続けるエネルギーの残っていない鬱屈とした人生からも、全てを自覚していて何一つ行動に移せない自分からも。
 インターネット上で、やっと初めて他人に言えそうになった「助けて。」も、どうせ他人(しかもインターネットの向こう側のよく知らない人物)がどう振る舞おうが自分の存在は全く助からないということをわかっているので、削除してしまう。

 磯辺恵介は、現実にもインターネットにも生きられない、宙ぶらりんの人生から助かりたい。自分が動かなければ助からないのはわかっていても、助かるための行動を起こして摩耗するのは助からないことよりももっと苦しい。

 

 そんな文脈上にある(とわたしが勝手に拗らせた解釈をしている)「助けて。」は、映画ではカットされた。
 このシーンは、「助けて。」の直前まで描写されているので、尺の都合上カットしたというわけでもなさそうなのだが(原作漫画のコマではモニターに文字が映されているだけ)、どういう経緯でカットされてしまったのか……。
 あまりにも磯辺恵介の人格を薄暗く説明しすぎると、話がまとまりづらいからだろうか?
 しかし、彼はのちにとあるきっかけで人が変わったように前を向くので、そういった新しい人格との対比を考えると、やはりあったほうがよかったのではないかと思ってしまう。

 

 

 もう一つは、「勝った」「勝ったよ」「これでも俺けっこうがんばったんだ」「役立たずでごめん」のシーン(セリフではなくシーンまるごとがカットされている)。

 

 兄をいじめていたグループの現在地をネトストで特定し、襲いかかってボコボコにし復讐するシーン。これは上記とも少し関わりがある。いわゆる、磯辺がこれまでの惰性の人生にケリをつけて、方向転換させるためにやっと行動を起こした、決定的瞬間だ。

 

 おそらく、磯辺恵介と兄はいわゆる仲良し兄弟というほどではなかったのだろう。原作でも、「気の合う友人のようでした」という文字上の描写しかなく、その少し手前に「(兄は)優しすぎたのだと思います」と他人事のように書かれているのみだ。敵討ちと言い切るほどには少し早とちりな気がする。
 「気の合う友人のよう」程度だったために、磯辺兄は弟に自殺を話せなかったのかもしれない。だからこそ、磯辺恵介はもっと自分が生前の兄に寄り添ってあげていれば、という罪悪感に押し潰されそうになっているのではないかと解釈している。

 

 先述のブログコメント事件から、磯辺恵介は何度か自殺をほのめかす(ex.「来月の今頃にはとっくに死んでるんで」)。

 しかし、自殺はしない。なぜ自殺しなかったのかは読者の想像に任せられるが、まあ、自殺ってそう簡単にできるものではない。「生きるのが嫌」「早く楽になりたい」程度の厭世観ではなかなか自殺に踏み込めない。強く死を望んでやっと自殺企図に走れるかどうかで、そしてその先で自殺行為に踏み切ると肉体の生存本能がまた邪魔をする。
 人は死ぬときに二度死を実感するのではないだろうか。そして、それはとても怖い。言葉では説明できない、生理的な怖さがある。それが精神的な生存本能なのかもしれない。


 磯辺恵介が何を考えて自殺ではなく兄をいじめた人間(=自殺に追い込んだ”殺人犯”)たちに復讐することを選んだかはわからないが、ここまでほとんど惰性で生きてきたように描写されている磯辺恵介が、やっと前に進もうとした事件が、この復讐だったわけだ。

 復讐のシーン自体は映画にも描写されるのだが、「勝った」〜「役立たずでごめん」はカットされている。ただ事件を起こしただけ、というところに留まっている。
 それでは何も意味がない。
 ここで磯辺恵介は成功体験を手に入れて、兄の呪いを克服し、前を向いて、うみべの女の子に出会い、髪を切って、うみべの女の子と同じ大学に行くために受験勉強に励むことになる。

 

 この復讐を機に、磯辺恵介の人生は好転していくように見られる(同時に、小梅の人生は一時停止する)。
 好転することを伝えるためには、「勝ったよ」があってほしかった。あの磯辺恵介が生きていくことを選ぶのだから。

 

 

 原作との相違点は挙げ出したらキリがないので、このあたりにしておく。特に解釈に差し障るのではないかと感じる2点を挙げた。オタク特有の早口で4000字も書いてしまった。

 結論としては、磯辺恵介の拗らせ厄介オタクは観てもあまり楽しめないだろう、ということだ。おそらく不完全燃焼に終わる。俳優もかなり演技をがんばってくれていたのだが、わたしとしてはもう少し冴えない少年でいてほしかった(想像以上にキラキラしていた)。
 まあ、宣材などで映えることを考慮すると、どうしても主要人物にはイケメンを選ぶしかないのだが。

 

 こんなところで終わりにしよう。これを読んであえて観に行ってみるもよし、逆張りオタクを貫いて会期が終わるのを待ち、ネットフリックスなどのサブスクでの配信を待つのもよし。
 ひとつ言えることは、浅野いにおは偉大だということだ。
 彼ほどにメンヘラを熱狂させる漫画家はそうそういないだろう。押見修造なども並んで挙げられることも多いが、わたしは浅野いにおのポップさが好きだ。
 浅野いにお先生、ありがとう。

 

 もう一度言うが、わたしは、磯辺恵介の生活を支えるママ活おばさんになりたい。

 

 

安らかに生きたい、ただそれだけ

 

 6連勤のうち5連勤が終わった。

 わたしは基本的に大学生の「n連勤嫌すぎる><」みたいな戯言は聞くに値しないと考えている。なぜならシフト希望を提出したのはその本人であり、バイト先側はそのシフト希望に応えただけだから。
 だからわたしも6連勤については不満はない。むしろ、外山合宿に参加しており働けなかった10日間分の収入を取り返すのに必死なぐらいだ。

 

 ただ、3連勤、1休、6連勤、みたいなスケジュールで夏休みが過ぎていくことが悔しい。

 特に、外山合宿に参加してその気持ちが大きくなった。

 インテリ学生はわたしが働いている時間に本を読んだり、自主合宿に参加して議論し合ったりして、知見を広めて人生を豊かにしているということがわかった。

 そういえば浪人生の頃も、30人ほどのクラスのうちでバイトをしているのはわたしともう1人ぐらいだった。

 

 

 わたしはある程度働かなければ大学生としての生活ができない。仕送りが家賃を下回っているから。鬱による転学部に伴う留年をしたから。ゆくゆくは大学院に行きたいから。

 

 別に実家は貧しくない。むしろ幼い頃は習い事をハシゴして通っていたくらいには裕福なお嬢様育ちだ。食べることに困ったことはないし、それどころかどちらかというとぽっちゃり体型だった。

 親の希望の通りに公立大学に合格したので学費はそこまで高くない。浪人はしたけれど費用の3分の2ぐらいは働いて自己負担した。

 一人暮らしを始めるにあたっての費用はすべて自分で賄った。

 

 かつては裕福だったはずだ。それでも今はこんなにもお金に余裕がない。両親の雇用体系は変わっていないので、世帯収入もきっと変わっていないか上がっているぐらいだろう。それなのに、どうしてこんなにも自分の時間と身体を資本主義に売り飛ばしているのだろう。

 

 

 一人暮らしをしていなければもう少し豊かな生活が送れただろうかと考える。同時に、経済的には豊かであっただろうが、精神的に厳しい生活を送っていただろうと簡単に想像がつく。

 家庭はほぼ崩壊している。そもそも一人暮らしを始めたのは、大学が実家から遠すぎる(2時間半)ということを口実に、母親と、その母親が支配する不穏な空気をまとった家庭から離れるためだった。

 一人暮らしをしていなければ、という仮定は何の意味もなさない。

 

 奨学金を借りていればよかったのだろうか。

 日本学生支援機構奨学金は、父親がアンチJASSOのため借りられなかった。

 以前、母親に勧められた自分語りレポートで合否が決まるよくわからない奨学金に応募したことがある。それも落ちた。そもそも、意識高く芸大生をやっていたところで、キラキラ企業の求める社会に役立つ人材にはなれない。今の日本社会は純粋芸術をそんなに必要としていない。商業芸術にばかり群がる。

 他のほとんどの奨学金は4年でのストレート卒業を前提にしているので、もう5年生になった今は借りることができない。

 奨学金を借りていれば、という仮定も何の意味もなさない。

 

 

 帰納的に結論を導くにはあまりにも拙速かもしれないが、まあ、つまり今のわたしは八方塞がりなのだ。働けるうちに働いておくしかない。

 夏休み、冬休み、春休みを休みだと思ったことがない。夏働き、冬働き、春働きだ。

 

 アルバイトをしなくてもお小遣いをもらえる実家暮らしの大学生については言うまでもないが、通学に時間がかかっても、家に帰りさえすれば安らかに過ごせる大学生も羨ましいし、ほどほどに働けば仕送りと収入でそれなりに満ち足りた生活ができる大学生も羨ましい。

 羨ましいという感情に苛まれて過ぎていく時間ほど無駄なものはない。

 

 安らかに生きたい、ただそれだけだ。そんなにハードルは高くないはずなのに、どうしてわたしはいつまでもそこにたどり着けないのだろう。

 

 

 昨日、わたしにしては珍しく映画を見た。寺山修司の「田園に死す」。脚色はかなり多いが、ほとんど彼の自伝のような映画だ。

 彼も家庭環境に、特に母親との関係に頭を悩ませていた。

 子は親殺しによってはじめて自立できる。親を殺してから、ようやく子の人生が始まる(物理的に殺す必要はない、あくまでも比喩としての親殺し)。

 

 わたしは親を殺すことができないでいるということだ。親が作った遺伝子、親が用意した環境、親が敷いた人生のレール。そこで育ったわたしという個体、わたしの自意識、わたしの現在。

 全てが地続きであることを否定する必要はない。どこかで親を裏切ればよいのだ。

 わたしは親を裏切るつもりで芸大に進学しようと浪人したし、実家を出た。裏切ったはずだったが、結局、親を裏切ったという自負は親に依存しなければ成り立たない。

 自分だけの人生などというものは存在しない。少なくとも自立するまでの段階は親の人生の一部分にすぎないのだ。

 

 

 親を一番ひどく裏切る方法は自殺だろう。親は子がひとりで生きていけるように自分の人生をかけるのだ。死なれてしまっては全てが水の泡だ。

 そして、わたしは親を一番ひどく裏切りたいと思う。わたしの人生をこんなことにした親が憎い。また、親を憎むことでしか自分の人生にしがみつけない自分が惨めで仕方がない。

 やはり自殺するしかないのだろうか。親殺しをするためには、自分までもを。

 

 

 と、ちょっと不本意な連勤が続いたぐらいですぐ自殺がどうとか大袈裟なことを言い出すしょうもないメンヘラです。

 数年前に自殺未遂の未遂をしたので、ここはもう開き直って生きてゆかねばなりません。まだ見ぬ死に思いを馳せながら、お酒と煙草でゆるやかな自殺を目指すのみです。

 

 ビバ・メンヘラ。

 

 

 

15.5

 

 ファシスト・革命家の外山恒一が主催する、現役学生限定の教養強化合宿に参加してきた。
 
 毎年、春と夏の2回に行われており、10日間かけて新左翼史を叩き込んでもらえるありがたい合宿だ。しかも食事も寝床も風呂も洗濯もなんでもかんでも無料。ありがたい。
 外山氏とこの合宿の知名度が全国的に広がってきて、参加者が多すぎるために今年の夏は前後半の二度に分けて行われ、後半に参加したわたしは第15.5期生となった。
 
 界隈では"外山合宿"と呼ばれている。わたしが外山合宿を知ったのは2~3年前。Twitterのオタクなので存在は知っていたけれど、人格を魔改造されそうな気がして怖くて毎年応募できないでいた。
 5年生になって、やっと踏ん切りがついて参加した。
 
 
 というのも、わたしは春から夏にかけて(というか寒くない時期はすべて)路上飲酒に明け暮れており、バイトのない日はほとんどTwitterやTinderで路上飲酒仲間を探していた。
 ある日、フォロワーから京大正門前に呼ばれたので、ヒョイヒョイとチャリを漕いで行った。みんなでお菓子を囲むようにお酒を飲んだり飲まなかったりしていた。顔見知りのフォロワーも数名いたし、全然知らない人もいた。京大正門前ということもあって、インテリっぽい学生が多かった。
 10分ほど、顔見知りのフォロワーに挨拶をしてまわったり会話をしたりしていると、なんとそこに外山氏が現れたのだった。わたしが呼ばれたのはどうやらOB会だったようだ。はめられた、と思った。きっとフォロワーはわたしを外山合宿に送り込みたかったのだろう(知らんけど)。
 
 軽く自己紹介をした。芸大では何をしているんですか?と聞かれたので、フェミニズムとポリコレと闘っています的なことを言った。ちょうど春学期に、ジークムント・フロイト男根主義的女性論とわたしの個人的体験にもとづいたアンチフェミニズムのゼミを開いて、聴衆を不快にさせれば成功という作品(?)を提出したところだったので、それについて話した。
 その場ではなんとなく話がいい感じに進み、ひとまずは応募することにした。人格の魔改造、ドシドシやってこい、という気持ちだった。
 
 
 合宿のカリキュラムは、1日4時間の精読×2と2時間の映像上映×8日だ。学習した内容については、ぜひ合宿に参加して外山氏から直々に学んでいただきたいのでここでは割愛する。彼はファシストを名乗っているが、新左翼史についてはどの党派についてもかなり客観的に教えてくれたと思う。
 
 わたしについては人格が変わるということはなかったが、参加者のうち何人かは新しい道が切り開けていたようだった。はじめて煙草を吸ったという人、酔っ払うと笑いが止まらなくなるということを自覚した人、自我が芽生えたという人などがいた。
 
 合宿は嫌煙権の持ち込みが禁止されていたので(外山氏が愛煙家であるため)、バカみたいな量を吸った。いかに自宅が禁煙であることにストレスを溜めているかということがわかった。
 あまりにもなくなるので、3日目ぐらいにカートンで買ったのだが、それも最終日にはなくなった。食事も寝床も風呂も洗濯もなんでもかんでも無料だということにかこつけて買いまくった。京都に戻ってしまえば、食事も寝床も風呂も洗濯もなんでもかんでもお金がかかる。喫煙のペースを落とせる自信がない。
 
 一応、非喫煙者に配慮して喫煙席をもうけていたが、ヘビースモーカーがもうひとりいて、しかもふたりとも揃ってADHDの傾向が強いあまりに、部屋の一部がスラム化していた。窓を閉めていると視界がうっすら曇るほどだった。
 また、ヘビースモーカーズにつられて喫煙のペースが上がった人、合宿を機に喫煙を始めた人などもいて、なかば伝染するような形で喫煙ネットワークが出来上がった。最終日が近づくにつれて、わざわざ喫煙席をもうけた意味がなくなっていった。
 
 
 毎晩が修学旅行のようで、眠ってしまうのが惜しく、ほとんど毎日4時間睡眠で10時間の教養強化にはげんだ。ニコチンとカフェインでバキバキに覚醒しながら学ぶ学生運動と、それにともなう内ゲバ闘争は、とてもわたしを興奮させた。
 デカい主語にはなるが、今の学生がいかにヌルいかということを思い知らされた(学生運動についてはまるで抹消されたかのごとく歴史の教科書に載っていないし、文科省側がヌルい学生を量産しているとも言える。)
 
 わたしの所属する大学・京都市立おもんなボケ芸術大学は、おそらく15.5期生の所属するどこの大学よりもヌルい。学生自治会は存在しているし、それなりに機能もしているが、教務課や総務課がとにかく保守的なので、せっかく学生からの案が出てもよくわからない理由で却下されたりする。
 そして、学生全体がヌルい。ややリベラル寄りではあるが、それは大衆が左傾化しているからであり、そもそもおもボケ芸大の学生の大半は伝統的に事なかれ主義のお利口さん集団なのだから、大衆が左傾化すれば"ややリベラル"になって当然なのだ。
 "事なかれややリベラル"は"バカウヨ"よりも愚かだと思う。バカウヨはバカウヨになることを自ら選んでいるという点においては"ややリベ"に勝っているのだ。
 
 わたしは愛校心というものがまるでないので、わざわざ学生運動を起こそうとも思わない。自分の大学のシステムがどうなっても、自分が好きなことをやれるだけの環境は現時点でほぼ揃っているので(100%ではないがある程度は自力でなんとかできる)、正直なところどうでもいい。
 ただし、嫌いな点はもう山積みで、そのうちのいくつかは私情を除いてもかなり理にかなっているので、ストレス発散としてまた何かをしてみようと思う(かつての喫煙所撤去反対ひとり運動のように)。コロナ禍に入ってから1年以上放置していた学生自治会Googleクラスルームの招待について、やっと参加ボタンを押した。
 ひとまずは学科の講義について、社会学の1がジェンダー論、社会学2がフェミニズム論という公立大学としてはありえない偏向教育っぷりであることの是非を問いただそうと思う。直接教務課に行く方がワクワクするのだけれど、まあ仕方ないのでそれなりに機能している自治会を通して文句を言うつもりだ。
 
 
 インテリ学生がなかなかいないというのも弊学の悪いところだ。さながら大人のお絵描き教室。お絵描き教室にしては学費が高すぎる。観念的な会話を好む人物に遭遇したことがないのはわたしが不登校なのが悪いにしても、その、Twitterで、お気持ち表明しかできないのは、なんか、やめたほうがいいんじゃないかなあ……。講義の出席レポートに、「〜とゆう」「〜やったらいいのに」とか、その、口語(しかも関西弁!)は、書かないほうがいいんじゃないかなあ……。
 現実のわたしという人格を、教養でボコボコにしてほしいんです。どちらかというとマゾヒストなので。
 
 外山合宿にはインテリ学生が集まっていて、大変によかった。わたしは完全に敗北していた。知識の量という点では人によって差があったが、みんなが積極的に自身の考えを言語化していて、なかなか終わらない議論が起きたりして、わたしの望むものはここにあった。絵が描ければ日本語なんて多少苦手でもいいなんて言い訳をするアホ共に見せつけてやりたい。
 京都市立おもんなボケ芸術大学は、第二外国語をフランス語かドイツ語かを選ばせる前に、日本語を教育しなおしたほうがいい。
 
 インテリ学生たちに刺激されて、また新左翼史にもやはり美術家は登場していて(社会と美術は切り離せない)、美術史や美学についての知識をもっとつけたいと思った。そしてもっと人と語り合いたい。
 そのほうがきっと人生が豊かになる。もっと本を読んで、もっとたくさん展覧会に足を運んで、どうしても美しいとは言ってあげられない自分の人生を、できるだけ美しいものを見ている時間で埋めよう。とにかく積読を消化したい。
 
 8日間で3冊も難解な本を読めたので、秋学期の始まる10月までにあと10冊は読める計算だ。読書会なんかを開いてもいいかもしれない。ただ、美術の観念について興味のある人があまり周囲にいなさそうなので、人が集まるかどうかはわからない。孤独だ。こんなことならまともに大学に通っておけばよかったのか。オタクだらけのジメジメ自分探しお絵描き集団の中でも、果敢に闘っていれば、今頃……。
 
 
 最終日、駅で解散するときに、外山氏に「おもんなボケ芸大でもがんばってください」と言っていただけた。これでおもんなボケ芸大も外山氏公認のFラン大学だ。すべての人民に、知らないとは言わせない。布教活動はまだまだ続く。
 そもそも、大学の知名度が低いくせに入試の難易度は高い(実際はそうでもないのだが、なぜだか世間ではそう言われている)というアンビバレントな現状が、学生のナルシシズム=ナショナリズムを煽っている。
 
 京都市立芸術大学よりも、京都市立おもんなボケ芸術大学を広めたい。だって地味だから。いくらおもボケ芸大の公式略称が京都芸大だとはいえ、裁判の事実上敗北によって京都芸術大学というFラン私立大学が爆誕してしまったので、差別化をはかるためにはもう京都市立おもんなボケ芸術大学を広めるしかない。読者のみなさん、覚えてくださいね。
 
 
 充実した10日間でした。10日間も連続で労働をしないというのはもう何年ぶりだかわからない。わたしはきちんとプロレタリアートには戻れるだろうか。万国の労働者よ、団結せよ!
 
 10日間もともに過ごしてくれた同期の13人のみなさん、仲間に入れてくださってありがとうございました。フィールドは全く違うのに、1時間半もアートについて熱烈に議論してくれて楽しかったです。結論はアート論というか言語論だったような気がするけれど、みんながアートの定義について1秒でも考えてくれたのがうれしかったです。
 食事係のお2人も、1日2回、ものすごい量の食事をものすごいおいしさで作ってくださってありがとうございました。
 何よりも、こんなに素敵な合宿を企画してくださった外山先生、ありがとうございました。また京都に来られた際はよろしくお願いします。こちらもまたいつかOBとしてクソデカい顔をして遊びに行きます。
 
 
 外山合宿は次回はなんとこの秋にもやるそうなので、フォロワーはぜひ。9/30-10/9だそうだ。
 どういう日程設定なのかよくわからないけれど、まあFラン大学よりは行く価値がある(外山氏は日本のすべての大学についてFラン大学と呼んでいるので気を悪くしないでほしい)。
 
 
 

わたしのインターネットを返してください

 

 

 はてなブログが「はてなインターネット文学賞」なるものを開催すると知って、人一倍インターネットへの執着が強いわたしは文章を書かないわけがなかった。

 わたしのインターネットへの執着がどれぐらい強いかと説明すると、わたしは自分のiPhone SEをインターネットと呼んでいる。わたしはインターネットを手放さ(せ)ないので、iPhoneを失くすことはない。iPhoneという手のひらサイズの黒い箱に絶大なる信用を置いているため、絶対に失くしては困るもの(クレジットカード、ICOCA、学生証など)はiPhoneケースに挟んでいる。

 

 はてなインターネット文学賞のテーマは「わたしとインターネット」。

 小学校2年生の頃に自宅がインターネットに接続されてから16年になる(現在24歳)。16年間、わたしとインターネットが歩んできた人生をこの記事では書き連ねていく。怖い体験や恥ずかしい失敗もたくさんしてきた。それらの経験は今やわたしの人格の血となり肉となっている。これを機に、真っ黒な歴史を成仏させてやろうと思う。

 

 

 小学2年生の頃、父の仕事の関係でインターネットが自宅にやってきた。デスクトップタイプだった。部屋の間取りの都合上、インターネットはわたしの部屋に置かれることになった。

 当時、過干渉な母により人間関係や在宅中の時間の使い方をほとんど管理されていたわたしは、長風呂が趣味の母親が入浴している間だけは自由だった。

 

 わたしにはいつからか空想癖があって、物語をあれこれ考えるのが好きで、絵を描くことも好きだったので、将来は漫画家になりたいと思っていた。しかし、物語が頭に浮かぶスピードに絵を描くペースが追いつかず、頭の中には未完のストーリーがたくさんしまわれていた。

 どういう経緯だったかはもう覚えていないが、クラスの同級生の女子二人組とメアドを交換することに成功した。どちらも学年でトップレベルに顔が可愛くて、いつもおしゃれで、流行にも敏感で、いわゆるスクールカーストの上位層の二人組だった。

 

 晴れてトップ・オブ・カーストの女子二人とメル友になれたわたしは、頭の中の未完のストーリーを長文で二人に送るようになった。少しでも楽しんでもらおうと、少女漫画テイストの題材を選んで、登場人物の名前を二人の名前に置き換えて書いた(二人のうちの片方の子の名前が男の子にもよくいる名前だったので、そちらをヒーローにした)。

 今になって思えば大変に気持ち悪い語りたがりオタクムーブだが、二人ともとてもやさしい子で、いつも学校で感想をくれたし、いつも続きを楽しみにしていてくれた。

 3年生になってクラスが離れたのと同時に、この不思議な関係性は終わった。

 

 

 小学校高学年になり、SNSの存在を知った。

 株式会社ぱど(タウン誌「ぱど」の発行元)が運営していた、インターネット上の架空の街(実在する地名がパロディ化されている)「ぱどタウン」というサービス。そこでは、自分の部屋を作り、部屋を出るといろいろな地域の住人とコミュニケーションを取ることができた。2017年の夏にサ終していたらしい。

 

 中学受験が目前になっていたわたしは、ますます厳しくなる母の干渉に辟易していた。放課後は受験勉強と習い事で埋められ、友達と遊ぶことができなかった。人と関わりたいというフラストレーションが溜まっていたわたしにとって、SNSの存在は救いだった。ぱどタウンの世界に、友達がたくさんできて嬉しかった。学校から家に帰ると、理不尽に暴力を振るう母が待っていたが、やさしいインターネットもわたしを待ってくれていた。

 そんな中、ぱどタウン上で一人の男性と知り合った。

 ぱどタウン上で親睦を深め、お互いのメアドを交換し、ぱどタウンでも個人のメールでも交流した。記憶は定かではないが、ぱどタウンでやりとりしているメッセージは他の利用者からも丸見えだったと思う。メールでは、ぱどタウンで話せないような個人的なことも話した。

 小学生のわたしはあまりに純粋だったので、大人の男の悪意に気がつくことができなかった。メールの内容がどんどんエロの方向に流されていっていた。知らない言葉が送られてくるたびにすぐに検索しては度肝を抜かれた。

 

 母の入浴中のみに許されていたインターネット。わたしはインターネットに熱中するあまり、母が風呂から上がる音に気がつかなかった。風呂から出ると母はまずわたしの部屋に来て、課題として与えた問題集の進捗状況を確認しにくる。わたしが勉強していると思い込んで部屋に入ってきた母は、わたしがインターネットに対面していることに激怒した。

 そして、激怒する母にインターネットの画面を見られてしまった。そこには、大人の男の悪意がこもったメールが表示されていた。

 

 それ以降、ぱどタウンは母によってアクセスブロックをかけられ、ぱどタウンの友達は二度とわたしのインターネットに表示されなくなってしまった。たくさんの友達を失った。

 

 

 中学生になり、わたしはアニメオタクになった。なりきりチャット(キャラクターになりきった口調でコミュニケーションをする)のイナズマイレブンBLEACH銀魂のスレッドに籠った。

 なりきりチャットには、キャラクター名の後ろに記号をつけて、中の人を区別するという文化があった。例えば、「円堂守*」という名前のユーザーが、後日「豪炎寺修也*」という名前で参加していれば、中の人が同じであるということを示す。

 なりきりチャットの参加者は主に腐女子でありBL劇が繰り広げられるのだが、まれに腐男子や普通の男オタクが紛れ込んでいることがある。わたしはイナズマイレブンスレの常連のある男の子と仲良くなり、お互いをキャラクター名ではなくハンドルネームで呼び合うようになった(仲良くなるとハンドルネームで呼び合うようになるという文化があった)。

 

 チャット上にはいわゆるネット恋愛もあった。腐女子同士の絡みなので中の人は女と女であるが、チャH(チャット上のエッチ)のための個スレみたいなものが「○○専用」という表記とともに立ち上げられることがしばしばであった。

 わたしとその男の子ももれなくチャHをしていたが、いかんせんキャラクターの中の人(=わたし)もその子も性の経験がないため、事実上立ち入り禁止とされている他人のチャHスレを参考によくわからないままよくわからないことをしていた。

 ある日、メアドを交換して、それからはぱどタウンのケースと同じように個人的な話をするようになった。その子は北海道に住んでいて、同い年だということがわかった。わたしは大阪に住んでいたので、いつか会おうねという話をずっとしていた。

 しかし、中学生の遠距離恋愛(?)である。そのいつかが来ることはなかった。これが初めてのネット恋愛だった。

 

 

 イナズマイレブンといえば、「五条勝事件」をご存知だろうか。イナズマイレブンの前にはポケモンで行われていたが(コイル事件)、インターネット(5ちゃんねる掲示板)で団結した大人たちが、子供向けのキャラクター人気投票においてマイナーキャラへ大量投票をして順位で遊ぶというものだ。

 その頃、わたしはなりきりチャットからは離れてアメブロに住んでおり、人気投票で敵キャラの中でもさらにモブである「五条勝」というキャラクターに大量投票がなされていることを嘆くブログ記事を書いた。

 すると、即座に5ch(当時は2ch)のスレにわたしのブログのURLが貼られ、コメント欄がものすごい勢いで荒らされ始めた。慌ててコメント欄を封鎖して5chのスレを覗くと、過去のブログ記事からわたしの個人情報特定が進んでいた。

 ブログには大阪の私立中学に通っている日々について書いていたのだが、特定厨たちのリサーチ力はおぞましく、体育祭や文化祭の日程から中学名を特定された。中学名ぐらい特定されたところでこちらに何も非はないので別に問題はないのだが、ここで初めてインターネットは怖いということを思い知らされた。

 

 

 中学2年生の頃、本格的にTwitterを利用するようになった。アカウント登録自体は小学6年生の終わりごろにしていたのだが、アメブロで仲良くしていた人がTwitterに移行するということでわたしもTwitterに移った。そこでもイナズマイレブン界隈に属した。

 当時はまだ日本国内でさほどTwitterの利用者も多くなく、あらゆるジャンルのオタク(インターネットに古くから住んでいる人たち)ばかりだった。ハッシュタグも日本語非対応のためローマ字で表現する必要があり、引用リツイートも手打ちでコピペする必要があり、「FF外から失礼します。」という冗長な文句もなかった。

 

 わたしの中学は学年が70人程度という少人数教育を謳っている学校で、誰か一人がおもしろい文化を持ち込むと爆速で学年中に広まる傾向にあった。わたしはそこにTwitterを持ち込んだ。

 イナズマイレブン界隈をフォローしているアカウントでクラスメイトたちをフォローした。クラスの人数が15人という狭い世界では、みんなわたしが腐女子だというのを知っていたし、あいつが地元でヤンキーとつるんでいるとか、あいつがバンギャのメンヘラだとか、あいつとあいつが寮でセックスをしたとか、そういう個人の事柄をみんなが共有して、責めることもなくわかり合っていた。

 

 わたしは中学2年生の頃から情緒の不安定が顕著になり、リストカットもこの頃から始まった。Twitterではイナズマイレブン界隈で仲良くなった人だけフォロリクを通す鍵垢を持って、そこで病み散らかしていた。学校のことや家のことなどいろいろなヘイトを吐いていた。

 

 少人数教育とはいえ、学年に70人いれば一人ぐらいは悪いことを考えるやつが現れる。

 イナズマイレブン界隈にはわたしの信者みたいなユーザーが少々いた。その信者のふりをして、赤の他人としてアカウントを作り、信者としてわたしに近づいて、わたしの鍵垢にフォロリクを送ってきた同級生がいた。わたしはそれに気づかずにフォロリクを通した。

 そいつはわたしのツイートを同級生数十名が参加しているスカイプのグルチャ(当時はまだLINEが普及していなかった)にコピペして、みんなでわたしを監視していたらしい。

 

 いつから監視が始まっていたのかは今でもわからないが、良心の呵責に耐えかねた同級生の一人が告発してくれたことで発覚した。

 立派なネットいじめだった。みんな中学受験を乗り越えている分リテラシーがあったが、だいたいが第一、二志望を落ちてきた生徒だったので(わたしももれなくそうだった)、そのせいもあってかやり口が巧妙でひねくれていた。

 

 

 高校生になると、それまでに比べてインターネットに浸ることはなくなった。中高一貫を離脱して地元の自称進学校に進んだこともあって、勉強も部活も忙しかったからだ。

 相変わらずTwitterは利用していたし、身内向けにネタツイばかりしていたので高校内ではフォロワーは多い方だった。Twitterで仲良くなってから高校の食堂で一緒に昼食を取るというオフ会みたいなノリで知り合った友人もそこそこいた。

 しかし、わたしが高3くらいの頃にInstagramがいよいよ日本でも勢力をつけてきて、受験期を挟み、みんなが大学デビューとともにInstagramに移行し、タイムラインは静かになった。

 

 一方、わたしはTwitterから出られずにいた。現役で大学受験を放棄して浪人したからだ。12歳でTwitterに登録して、浪人時代は19歳。7年間もTwitterとともに人生を歩んできたわたしはTwitterを捨てられなかった。

 というのと、Instagramはやはり基本的に幸せや自慢ごとをシェアするキラキラSNSなので、有象無象の社会不適合者が傷を舐め合うネチネチSNSの方が人生をさまよう浪人生には適していたのだ。

 一度開花したメンヘラは生涯枯れることはない。中高で知り合った人間のうち数少ない自分の味方とも言える友人たちだけが見ている鍵垢で、受験デッサンの成長具合を載せたり、予備校での不平不満を述べたり、理由のない漠然とした希死念慮をぶちまけたり、将来の不安について嘆いたり、負のインターネットをしていた。

 

 

 浪人生活は一年で済んだ。第一志望の芸大に無事に合格し、いよいよ鍵垢生活も終わりにしようと、高校生のときに使っていたアカウントを再度動かし始めた。同期や先輩をフォローして、また身内向けのネタツイばかりしていた。高校の同級生はもうほとんどInstagramに移行してしまって誰も見ていなかったけれど、やはり芸大にはオタクや社会不適合者が集まるので、Twitterが活発だった。

 身内向けのネタツイや美術に関するお気持ち表明で、他大の学生からフォローされることも増えた。プチバズや鬼バズを何度か繰り返し、ヲチ垢や裏垢男子(なぜ?)からのフォローも増え、いつの間にかフォロワーが3000人を超えていた。

 

 ネタツイと美術お気持ちで増えたフォロワーにはネタツイと美術お気持ちを提供しなければならない、という謎の使命感にかられ、あまりのびのびとツイートすることができなくなった。そこで縮小垢を作った。本垢が「♥️𝔹𝕀𝔾 𝕃𝕆𝕍𝔼♥️(@mauchiii_)」という名前だったので(躁鬱の混合期に、世界に対する愛とヘイトのダブルバインドに精神の限界を感じて、平和を祈ってこの名前をつけた記憶がある)、縮小垢の名前は「クソデカい愛(@_iiihcuam)」にした。

 クソデカい愛では、大学の悪口を言ったりメンヘラ芸をしたりしていた。

 予備校の学費を3分の2ほど自己負担してまで入った大学のことをわたしは好きになれなかった。理由はこの記事の本筋からずれてしまうので書かないが、自分の大学を「京都市立おもんなボケ芸術大学」と呼んで皮肉を垂らしまくっていた。

 

 大学アンチとメンヘラ芸が過ぎたのか、クソデカい愛にアンチがつくようになった。鍵垢からの謎の引用リツイートが来たり、頻繁にアカウントに運営からのロックがかけられたりして、わたしのインターネットはどんどん不自由になった。

 インターネットの人口が増え、Twitterの治安が悪くなっていることに焦り、ルールを増やしていくTwitter社の気持ちもわかる。しかしわたしにも自由に発言する権利がある。特定の個人を攻撃しているわけではないのに過激なワードに反応してロックをかけてくるTwitter社にも、不快に思うなら初めから見なければいいのにいちいち監視して運営にツイート報告を行なっているアンチにも腹が立つ。

 わたしのインターネットはわたしのものだ。誰にも邪魔する権利はない。

 

 

 そしてこの記事を書くことになる5日前、「♥️𝔹𝕀𝔾 𝕃𝕆𝕍𝔼♥️」「クソデカい愛」の二つのアカウントが永久凍結した。

 

 何度Twitter社にメールを送っても、「永久凍結は解除できません」と返ってくる(英語で)。どうやら先に永久凍結をしたのは「クソデカい愛」の方で、Twitterには「永久凍結を回避するためにアカウントを新しく作った場合はそちらも永久凍結する」というルールがあるらしく、「♥️𝔹𝕀𝔾 𝕃𝕆𝕍𝔼♥️」のアカウントの名前を「クソデカい愛」に変更した瞬間に凍結された。

 特定の個人について言及し攻撃はしていない。確かにブラックジョークは好んでいたが、ジョークをジョークとして解析できないTwitter社のシステムに問題がある。

 丸の内にあるらしいTwitter Japanに直接赴いて直訴しようかとも思ったが、どうもアカウントのロック解除などの権限はあまりTwitter Japanにはなく、本社(アメリカ)に行かねばならないということをはてなブログを通じて知ったので、今は一時的に諦めて「クソデカい愛」という名前を使わずに、「デカすぎる愛🎶(@m_auchiii)」としてひっそり生きている。

 Twitter社、早く「♥️𝔹𝕀𝔾 𝕃𝕆𝕍𝔼♥️」の3000人のフォロワーを、「クソデカい愛」の500人のフォロワーを返してくれよ。

 インターネットのためならば東京に行くことぐらいなら厭わないが、さすがにアメリカとなると厳しい。もしわたしが無限の富を抱えた不労所得の女王であれば行けたのだが、現実は貧困芸大生だ。

 

 

 インターネットは自由なはずだった。少なくともぱどタウンなりきりチャットの頃のインターネットは自由だった。親に怒られるぐらいには自由だった。

 今のインターネットはあまりにも息苦しすぎる。スマートフォンの普及によって、インターネットは開かれ、人口が爆発的に増え、ブラックジョークとヘイトスピーチの区別をつけられないリテラシーの低いクソ野郎どもとクソ運営どもがインターネットを牛耳って、古のインターネット人を排斥しようと躍起になっている。

 わたしのインターネットはいつの間に失われてしまったのだろう。わたしのインターネットは誰に奪われたのだろう。わたしのインターネットはどこに行ってしまったのだろう。

 

 誰か、わたしのインターネットを返してください。

 

 

 P.S. このブログを公開する予定だった7/20にもまたTwitter社に一時的にロックをかけられ(12時間)、宣伝ツイートをすることができなかった。

 Twitter社の言論弾圧を止める方法はないのだろうか……。

 

 

 

女運の悪い人生

 

 

 お題:クソ女

 

 とあるフォロワーに「もっとはてなブログを更新してください🎶」と言われたので、はてなブログを更新することにしました。

 とはいえネタもないのでいろいろなフォロワーからお題を募集したところ、一番目に「クソ女」というリプライが届いたので、クソ女について書こうと思うのですが……。

 

 

 クソ女の特徴って、まずは「女友達が少ない」だと思うんですよね。クソ女は、男に対してメス力(ぢから)を発揮しないとコミュニケーションが取れない。同性からの信用を得られない。それは逆パターンのクソ男も然りですね。

 

 女友達がいないクソ女にもいろいろなパターンがあると思います。今いちばん𝑰𝑵𝑻𝑬𝑹𝑵𝑬𝑻で嫌われているのは"サバサバ女子"でしょうか。漫画アプリの広告にしつこく現れすぎた結果、現実だけではなくバーチャルの世界ですら嫌われるようになってしまった、哀れな"サバサバ女子"……。

 メス臭さを打ち消すためにあえて横暴な態度を取る(汚い言葉遣い、ガサツな挙動、etc.)というのは、逆にメス臭さが際立って大変に生臭い。何もしなければ無臭なのに、わざわざ存在にスポットライトを当てるから臭うんです。

 そういう女に限って性欲が強かったりします。彼氏やセフレや気になる異性が絶えない。女という性を意識するという行為には、同時に男という対称の性を意識することが多少なりとも含まれるのではないでしょうか。

 

 

 そういう意味では、腹黒ぶりっ子女子の方がまだ素直でかわいいかもしれません。いやかわいくはないけど……。

 都市伝説だと思っていたんですが、過去に一人だけ同級生にいました。"友達の好きな男を横取りする女"。

 

 正確に言うと、その女は横取りこそ成功しなかったものの、誰かがその女に恋愛話を打ち明けると、それ以降あからさまにその男との距離を縮めようとするタイプの女でした。いわゆるお題の"クソ女"ってこういうタイプなんじゃないかと思います。

 その女は、顔もよく、骨格もウェーブで女性らしく、成績もよく、リーダーシップも取れて吹奏楽部の副部長をしていました。まさに容姿端麗、才色兼備。全てわかってやっていたのでしょう。

 わたしはまた別の理由からその子が苦手だったので、あまり深く関わらないようにしていたのですが、第一志望の神戸市外大に落ちて、どこにも拾われず関西外大という(当時と比べて現在は少し難化したそうですが)Fラン大学に進学したと聞いて内心ガッツポーズをしていました。

 一方わたしはどこの大学も受けずに浪人したので、誰を笑っても許されたんですよね。今となっては一浪二留モラトリアムの親泣かせですが。学費は自分で払うから赦(ゆる)して〜。

 

 

 しかし、これまでの人生で出会ったいちばんのクソ女は、意外にも恋愛がどうこうという女ではありませんでした。これも高校生の頃です。同じ部活でマネージャーをしていた女。

 

 どうも母親が過保護で、何でも言うことを聞いてくれるタイプの甘やかされたお嬢様というか。お腹が空いたとか頭が痛いとか朝ママと喧嘩したとかそういう理由で一日中不機嫌になり、口を利かなくなる女でした。何を言っても無視される。それではマネージャーの仕事がうまくいきません。

 きっとご家庭ではそうしているとご機嫌を取ってもらえたのでしょう。赤の他人ですからこちらはそんなことをしてやる義理もないわけで、とはいえマネージャーとしての仕事も進めなければならないし。

 そのくせに、二人でマネージャーをしていた期間が長かったのでわたしにどっぷり依存していて(まともに他の女部員と話せないので)、練習試合などで学校単位で行動するときはいつも横をちょろちょろしやがる。わたしは機嫌を損ねないように顔色を伺い続けなければなりませんでした。

 というトリプルバインドでわたしの青春はこの女に潰されたと言っても過言ではない。精神衛生に悪すぎる。この女がいなければ躁鬱を拗らせることもなかったかもしれません。

 

 

 思えば、わたしは女運の悪い人生かもしれません。いちばん身近な女である母親からはボコられて育ち、中学時代は女が主犯格のいじめを受け、高校時代は上記のクソ女に振り回され、メンタルがガタガタになりました。

 

 

 とはいえ、同性の友達が少ない、異性とのコミュニケーションの方が気楽、という意味ではわたしもある種の"クソ女"なのかもしれません。

 小学生時代から過干渉の親に人間関係を管理され、友達の作り方という子どもの必修科目を履修することなく大人になり、女だらけの大学に入学するも不登校マッチングアプリと夜職に現実のコミュニケーションを全振りし、𝑰𝑵𝑻𝑬𝑹𝑵𝑬𝑻に引きこもってバーチャル空間のフォロワーたちにちやほやされて満たされる毎日。

 有象無象のオスたちを楽しませる方法は知っていても、女友達の作り方はわかりません。女友達って何ですか?

 

 女友達って何ですか?フォロワー、教えて……。

 

 

三年経った今でも

 

 

 フォロワーからの要望があったので、三年ほど前に共依存していて別れた元彼についての話をします。

 その元彼本人が見ている可能性がなきにしもあらずというのが怖いですが、気にせず思うがままに書き連ねたいと思います。

 

 

 四年ほど前、わたしは京都市立芸術大学に入学して1ヶ月であの大学のジメジメした雰囲気に絶望し、5月末にTinderを始めました。

 適当に知り合った男の子と適当に喫茶店に行ったり古着屋を巡ったりしながら、マッチングアプリもこんなもんか〜と女売り手市場をそこそこに楽しんでいました。大学は辞めることを本気で検討するほど全く楽しくなかったので、いい暇つぶしでした。

 

 彼とマッチしたのはおそらく7月ごろだったのではないかと思います。

 今となっては彼のプロフィールがどういうものだったかは思い出せませんが、たしかクリープハイプ浅野いにおが好きだということがわかるもので(画像が愛子ちゃんのTシャツだったような気がします)、名前は太宰治から取った「Osamu」さんでした。

 三、四年前のサブカル男女諸君は誰もがこういう時期を通ったんじゃないでしょうか……。今も存在するのでしょうか。

 

 

 わたしが京都の大学生ということで、彼は大阪の某私立大の学生で、京都に来てくれると言うので夕方から鴨川でビールを飲みました。

 わたしが一浪の一年生、彼はストレートのひとつ歳上で三年生でした。

 彼は絵画教室に通っていた経験もあり、大学では美術部に属していたことから、芸術大学美術学部に通うわたしの話をおもしろそうに聞いてくれました。といってもわたしは全くキャンパスライフをエンジョイしていないので、受験時代などの話をしていたんじゃないかと思います(あんまり覚えていません)。わたしは大学は嫌いですが美術は好きなので、アートに対する熱意はそこそこに伝わっていたと思います。

 それから毎日ひっきりなしにラインをしたり通話をしたりして、どんどん親睦を深めていきました。

 

 ある日、いつものように電話をしていて、突然「好きな人っていないの?」と聞かれました。もうすでにわたしは彼のことを好きだったので、「いるよ」と答えました。このあたりの記憶がもうぼけてしまっているのが悔しいですが(絶対めちゃくちゃときめいてたと思う)、両思いであることがわかりました。

 「電話で決めるのはなんか嫌だから今度会ったときに直接告白させてほしい」と言われたのは覚えています。これは結構よかったので、フォロワーのみなさまはぜひ使ってくださいね🎶

 

 

 お互いにお金がないカップルだったのですが、どれぐらいお金がなかったかというと、大阪と京都の行き来すら痛手になるレベルでした。わたしも彼も当時は実家暮らしで、二人とも機能不全家庭から出られずにいました。

 会えたとしても月に一、二回で、どちらも親の監視が厳しかったので、制作(彼は研究)に忙しいので大学に泊まるという嘘をついてラブホテルに一泊する、というお金のかかるデートが定番でした。

 時間的・金銭的に余裕のある月は他にもカラオケや、電車旅や、美術館などにも行きましたが、とにかく会える頻度が少ないので、わたしは解散する前に次に会える日を決めないと泣くという面倒くさい女ムーブをかましていました。

 

 ところで、自己肯定感と恋愛偏差値の低い女は、自分を肯定してくれるスペックの高い男が現れるとすぐに依存します。わたしはすさまじく彼に依存していました。彼に会えない日々は、彼に会える日を繋ぎ止めるためだけに生きていました(本気で)。人として生きるエネルギーのほとんどを彼に割いていたと思います。

 当時はまだ精神科に通っていなかったので、鬱っぽい状態が続くこともあったのですが、彼は「君が人生が無理になって死んじゃう時には僕も死ぬよ」と言ってくれていました。

 今となってもなぜ彼がわたしを好いていたのかはわかりませんが、立派に共依存をしていました。彼もまた「君を幸せにできるのは僕だけだし、僕を幸せにできるのも君だけだと思う。共依存だね」と言っていました。

 

 上記の彼の言葉は当時のLINEのスクショから引用しています。元彼の写真など全て消せないタイプの人間です。全く未練も何もないのですが……。

 

 

 毎日しょうもない自撮りを送り合って、秋にはわたしの大学の文化祭に足を運んで作品を見にきてくれたり、年末には2泊3日で福岡旅行に行ったり、ふらっと入ったバルでお店の人からのサプライズで半年祝いをされたり、いろいろなことをして過ごしました。そのたびにわたしは彼を好きな気持ちをアップデートさせていました。

 

 

 付き合って半年とちょっとが過ぎたあたりで、わたしの躁鬱の鬱が悪化してきました。まだこの頃は病院に通っていなかったので、躁鬱の波がひどかったです。

 わたしがしきりに言う「死にたい」にも彼は疲れてきたようでした。彼は大切な友人を過去に自殺で亡くした経験があることから、「死にたい」という言葉に敏感でもありました。

 また、わたしはその鬱に入る直前に実家を出ることに成功していて(躁転してアホほど働いて引っ越した反動で鬱転したとも言えます)、彼がときどき漏らす家庭の愚痴についても共感してあげることができませんでした。

 

 ある日、いつものようにわたしが死にたい死にたいと落ち込んでいると、「じゃあ僕にどうしろって言うん?」と電話越しに泣かせてしまいました。「どうせ死んじゃう人となんか初めから付き合わなければよかった」という趣旨のことを彼が言いました。

 

 これはまずいと思い精神科に通うことを決めました。思春期頃からずっと、3ヶ月〜半年のサイクルでエネルギーが上下するので薄々勘づいてはいましたが、やはり双極性障害2型ということで、炭酸リチウムを処方されました(しかしこの病院にはのちに行かなくなります)。

 しかし、もうこの頃にはきっと手遅れだったのだと思います。だんだんすれ違うようになってきました。

 

 

 わたしの誕生日が6月2日で、彼の誕生日とは3日違いだったので、とりあえずその直近の土日で二人まとめてお祝いをしようという話を5月の頭にしていたのですが、5月の下旬になって彼から「一人暮らしの入居日がその日になったから夜は泊まれないと思う」という連絡が来ました。

 すれ違っているというか、確実に彼の中でのわたしの優先順位が下がっていました。この頃はもう彼を好きだったというよりも、自分を大切にしてくれていた過去の彼というまぼろしに執着していたのだと思います。

 

 もう先は長くないだろうなという確信を得て、あとは振られるのを待つ状態でした。

 わたしはプライドが高いので、悪者になりたくないという気持ちが強く、自分からは別れたいとは言えませんでした。どうせ別れてしまうのであれば向こうの気持ちが固まってからにしようとも思っていました。

 

 

 それから一ヶ月ほどで別れました。わたしは彼氏の通う某大学の駅前のガストに出向いて、別れ話をしながら大泣きしました。別れるのはわかっていたのにね。

 彼からの最後のLINEでは「期待を裏切って、救えなくてごめんなさい」と言われました。

 

 

 ざっと振り返るとこんな感じです。三年も前であること、苦い思い出であることから記憶がかなりぼやけていますが、簡単にまとめるとこういう感じの約一年でした。

 メンヘラ(特に精神障害者)はできれば恋愛をしない方がよいです。メンヘラが相手に与える負のエネルギーは何事でも相殺できないぐらいに重くて鬱陶しいので。でもメンヘラって愛に飢えてるパターンが多いので厄介ですよね。

 共依存でも二人が幸せならいいよね、とは思いますが、そもそも世界は二人を中心に回っているわけではないので、よほどの幸運が続かない限りは二人のうちのどちらかが先に世界に魂を持って行かれて破綻するのです。

 

 彼に依存していた反省から、わたしは「ひとりだけをターゲットにするから依存して破綻するんやし、依存先は分散させた方がええなあ」という考え方に走り、浮気ばかりをするカス女になるのですが、これはまた別のお話で。

 

 

 彼に対する恨みのような念は三年経った今でも多少残っていますが、彼のおかげで育った人格もあるのであまり悪くは思っていません。

 彼のおかげで他者に依存することがよくないことだということがわかりました。己を救済するのは己のみだという今のわたしの諦念のようなモットーは彼がいなければあり得ませんでした。

 まあわたしは驚異のネトスト根性があるので、彼が今どうやら恋人と幸せそうにやっているらしいということは知っています。どうかお幸せに。できればたまに、京都に用事があった時にでも、わたしを見捨てたことを思い出してくださいね。