年明けから半年以上ずっと躁転している

 

 2021年上半期が終わったので、半年を振り返ろうと思います。

 とはいえ年明けから半年以上ずっと躁転しているのでほとんどの記憶がありません。iPhoneの画像欄を頼りに振り返ります。躁鬱病って怖いねー🎶

 

 

 1月

 年明け早々にコロナにかかりました。実体験としては、これホンマに死ぬほどのウイルスか?ぐらいです。個人差もあるのでしょうが、まあこうして弱者は淘汰されてゆくのでしょう。わたしは遺伝子的に強者なので……。

 ただ、背部痛だけは苦しかったです。持病の線維筋痛症が悪化したのかと思い、線維筋痛症を診てもらえる精神科に駆け込んだところ、いらないカウンセリングを受けさせられ(過去のトラウマがフラッシュバックして最悪でした)、やっと診察というところで内科にまわされ、PCR検査を受けて陽性。後日カウンセリング代を請求されましたが請求書を紛失したのでいまだに払っていませんし、もう払えないと思います。

 というか払いたくないですよね。過去のトラウマをフラッシュバックさせられて、精神科のところで門前払いされた体験に価値はないので……。

 

 自分がコロナにかかったこともありバイトができず、収入が5万になりました。そこでわたしは得意技かつ必殺技、Tinderを召喚。10日ぐらいTinderの男さんで食い繋ぎました。詳しくはこちらをどうぞ。おもしろい体験でした。

note.com

 10日間もあったのに、一回もマンコを差し出さずに済んだのが驚きです。Tinderっていい人もいるもんなんだなあと実感して、己の低俗さが嘆かわしい。

 セックスありきのコミュニケーションが当たり前になってしまってから久しいので、新鮮でした。早くマンコ縫いたいなあ。子供もいらんし(躁鬱で服用している炭酸リチウムに催奇形があるのでそもそも産めない)、いっそ閉経してほしい。

 

 

 2月

 Tinderでマッチしたバンドマンからお仕事をもらいはじめました。在学中にお金をもらって仕事をすると、狭い狭い世界に生きている他の芸大生にマウントを取れるので気持ちいいですね。

 毎年2月といえば、進級制作展があるので決まって鬱転するのですが(不登校→共同作業ができない→干される→引きこもる→人間らしい生活を失う)、転科した先の構想設計専攻は本当にフリーダムな専攻で、展示場所が決まればあとは期日までになんとかすればいいので、無事に乗り越えることができました。京都市立おもんなボケ芸術大学構想サイコー設計専攻、𝑳𝑶𝑽𝑬……。

 

 

 3月

 記憶もほとんどないし写真もあんまり残っていない。何をしていたのでしょうか。バイトかな。かろうじて残っているのは、元彼と南京町でデートしていた写真。

 出店に置かれていた人の声を真似してしゃべる人形に「死ね❗️」「殺すぞ❗️」と言わせて遊んでいたら元彼にドン引きされていたらしく、それも後々別れる原因になっていたらしいです。別にいいじゃんね。かわいい人形が絶対に言わなさそうなことを言わせるのが楽しいのに。

 

 

 4月

 晴れて大学5年生になりました。同期はみんな社会人デビュー。

 わたしは躁鬱病を別名・引越し病と呼んでいます。躁転すると引越しができるので……。駅徒歩10分1Kキッチン激狭から、駅徒歩8分2Kキッチン広めという豪邸に引っ越しました。早速家賃を滞納しています。自動引き落としにしてくれない限り期日なんて守れないよ〜。

 もともと引越しは元彼(そもそも別れていた)に手伝ってもらう予定だったのですが、前述の人形事案やわたしの人格の乖離への対処に限界が来たらしく決裂しました。「メンヘラ芸で幸せになれると思ってるん?」「”わたし弱者なんです”アピールが気分悪い」など罵詈雑言を浴びせられました。

 わたしだって好きで機能不全家庭育ち躁鬱病ADHDをやってるわけじゃねーんだ。健常者のほうがいいに決まってる。もう自分の人生をおもしろコンテンツとして開き直って誰かに笑ってもらえないと生きていられないんだよ。

 理解のある彼くんになりたい(要約)と言って復縁を申し込んだはずなのに、結局はこれ。健常者は信用できない。でもメンヘラと付き合って共依存が破綻した経験もあるのでもうわたしはダメです。異常独身女性まっしぐら。救済(たす)けて〜。

 

 

 5月

 特に何もなかったな……。

 弟が誕生日の前祝いとしてタバコをカートンで買ってくれたことぐらいでしょうか。お酒がいいと言ったのですが、「お酒の方がタバコよりも死亡リスクが高い」という謎理論でタバコになりました。どっちもゆるやかな自殺だと思うのだけれど。どっちみち嬉しいのでいいんですけどね。

 あと自分用の誕生日プレゼントにリサイクルショップで新品のアコギを衝動買いしました。上手くなりたいな〜。3年前に別れた元彼にもらったエレキを、𝑰𝑵𝑻𝑬𝑹𝑵𝑬𝑻に落ちている無料のタブ譜でぽろぽろ弾いて遊んでいただけなので、やっと上書きできそうです。

 今日もandymoriのクラブナイトの弾き語りを𝑻𝑾𝑰𝑻𝑻𝑬𝑹に載せました。上手くなるぞ〜。いつか鴨川でみんなで飲酒するときになんでも弾ける屋さんになりたいな。

 

 

 6月

 6月が誕生月なのでこれも毎年(生を懺悔して)鬱転するのですが、なぜだか無事に乗り切りました。

 彼氏のいない誕生日というものが久しぶりなので、鴨川で自主企画(?)でフォロワーを呼んで生誕をしたらいろんな人がいいちこの瓶やパックを持ってきてくれてほんとうにうれしかった。𝑰𝑵𝑻𝑬𝑹𝑵𝑬𝑻サイコー。

 生まれてきてよかったとはまだまだ思えなさそうですが、こうして生きていることを祝ってくれる人がいるという事実は大切にしたいです。フォロワーほんとうにいつもありがとう。絶対にわたしが救済するから待っててね。みんなで生きて幸せになろうね。

 

 

 自分のはてなブログの記事の質が回を追うごとに落ちていっている気がする。文章を書きたいという動機で書き始めるので、特に内容がないんですよね。伝えたいことも特にないし。

 

 下半期もこんな感じで躁転して乗り切りたいです。死ぬまで躁転していたい。まあつまりそれが寛解なわけで。薬さえあれば人並みに、むしろ人以上に楽しい人生を送ることができるので、ドシドシ投薬治療で無理矢理躁転させて死にゆこうと思います。

 これだけ躁がデカいと鬱が怖いんだよな。実は、もし次に鬱が来たらもう躁転を待たずに自殺しようと思っているんですが。誰しもいつか死ぬことは決まっているので、死期が早まったって地球からしてみればほとんど何の変化もない。

 上記のように誕生日を祝ってくれたひとたちを悲しませてしまうかもしれないけれど、わたしの人生の主人公はわたしなので、自分の死ぬタイミングぐらいは自分で決めたいんです。だから許してね。

 

 どうかそれまではみなさまこんなわたしとなかよくしてください。つらいこともたくさんありますが(むしろそっちのほうが多いかもしれないけれど)、限りある人生をともに彩りましょう。

 下半期もわたしはみなさまの救済であれるように努めます。よろしくお願いいたします。

 

 

 

いつか、生きていてよかったと思える日が来てほしい

 

 長文を書きたいという動機で長文を書く。

 アルコールで過活動になった脳みそで、薄暗い部屋で煙草を吸いながら、概念について思考して言語化する作業をしているとき、生きていることを実感する。

 

 

 明日(日付が変わって今日)は学校に行かなければならない。コロナも落ち着いてきたので、それまでオンラインと対面のハイブリッドだった授業も、対面オンリーになってしまった。

 本当に行きたくない。大学が嫌いすぎる。

 

 どうしてこんなにも嫌いなのだろうかと考える。もう答えはわかっている。自分の居場所が喫煙所以外にないからだ。

 躁鬱でぶち壊した人間関係も、同期たちの卒業によってほとんど清算された。みんながんばって働いているか、何割の人かは修士に進学してそれぞれの制作に真摯に向き合っている。

 それでも、あの大学にいると鬱だった時期を思い出したりして、パブロフの犬のように暗い気持ちになる。大学そのものがトラウマの地になっている。

 

 わたしのツイッターを見てわたしを気に入ってくれた後輩たちが何人かいる。喫煙所にいることをツイートしたら、喫煙者でもないのに会いにきてくれた。誠にありがたい。

 彼女たちもきっとわたしと同じようにこの大学の陰鬱とした雰囲気を察して窮屈に思っているのだと思う。

 きっと学年に135人もいればそういう学生は生まれてしまうのだろう。わたしはそういう人たちの救いでありたい。

 特にうちの大学は愛校心の強い学生が多い。入試を乗り越えることに苦労したからだろうか。受験生の頃の自分の努力を正しいものだと信じたいからだとわたしは推測している。だから、大学アンチの発言ばかりしていたら何人かにブロ解されてしまった。

 過去の自分を肯定するために、自分の正しさにしがみつくために所属大学を信仰するというのは、人としてあまりにも脆いと思うので、そういう浅い人たちを見るとゾッとする。自分を肯定するツールが一時的な努力で手に入れた所属大学の称号なんて、あまりにも思考停止すぎないか。

 そういうところが嫌いなんだ、京都市立芸術大学の学生の。

 

 

 とはいえ、嫌いな人種を数え上げればキリがないけれど、わたしはできるだけ多くの人々の救済でありたいと思う。

 メサイアコンプレックスだと言われればそれまでだが、もう自分の生に価値を見出すことができないので、他者の救済になる第二の人生を生きていくほかないのだ。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう、わたしの人生は……。

 

 ただひとつ言えるのは、被虐待児(虐待サバイバー)は誰も彼も本当に生きづらいのだろうということだ。

 精神科通いの知人は往々にして家庭環境が特殊だ。暴力、宗教、親の洗脳や支配、さまざまなケースがあるけれど、みなどこか親に狂わされてきた人生を背負っている。つらかったよねえ。でも自殺というあまりにも労力のかかりすぎる行為に対する願望を現実にしない限りは生きていかなければいけないもんねえ。

 みんな幸せになってほしいな。いつか、生きていてよかったと思える日が来てほしい。

 

 わたしに何ができるんだろう。何もできないな。ツイッターでメンヘラ芸をして傷に寄り添うことしかできない。

 「メンヘラ芸で幸せになれると思ってる?弱者アピールなんて見ていて気持ち悪いだけ」という言葉を浴びせられたけれど(しかも当時いちばん寄り添ってほしかった人に)、もう開き直らないと生きていけないんだよなあ。自分で自分の人生をネタにしないと気が保てないんだ。

 わからないひとにはわかられたいとも思わなくなった。この感覚はきっとわからないほうが幸せでいられる。わかるひとだけでわかり合って、捨てたいけれど必然的に存在してしまう命を繋ぎ止めていこうね。

 

 わたしはあなたの味方です。綺麗事になってしまうけれど、毎日を必死に生きているあなたに光が訪れることを祈っているし、その日が来るまではわたしがあなたに寄り添うからね。

 みんな幸せになろうね。

 

 

わたしはいつか救われるのだろうか

 

 死は救済ということばを信仰してはいるものの、それのみを信仰するほどの覚悟はわたしにはない。

 愛とはつまり他者からの無条件の肯定で、死がつめたい救済であるのに対して、愛はあたたかい救済であるように思うし、できればつめたいものに寄り添うよりはあたたかいものに包まれていたい。

 

 24歳にもなって、幼い日々に責任を押し付けることはほんとうに愚かだけれども’(今を生きるという選択をしているのは今の自分なので)、幼少期に条件付きの愛情しか与えられなかった経験がその後の人生における人間関係に影響をおよぼすのは事実。

 だからといって、今更親からの無償の愛を回収したところで、何の救済にもならない。

 

 他者からの愛を糧にする、一般的な"幸福な人生"を諦めきることができない。

 

 わたしが他者からの愛に飢えていることについて、かつては「自分が自分を愛せない代わりに自分を愛してくれる人がほしい」のだと結論づけていたけれど、最近はなんだかそうでもないような気がする。

 自己肯定感が低いゆえに、自己肯定感の高いふるまいを形として導入した結果、それなりに自己肯定感はついてきた。言霊とはすばらしい。

 

 それでも、やはり他者から存在まるごとの承認を、肯定をされることは気持ちがいいことを知ってしまったので、あてもなく探してしまう。

 

 

 この世の真理をつくような無償の愛などというものはマッチングアプリにはそうそう落ちていない。大抵の利用者は性欲を持て余していて、それを発散させられる動物的なヒト探しをするツールに、わたしの求めているものはない。

 ただ、Tinderで一時的であれど愛されることの心地よさを味わうという成功体験をしてしまえば、一度快楽をおぼえた脳はそれを忘れない。今のところ三例も打ち砕かれていて、大きな傷を負っているけれども。

 

 どうすれば救われるんだろう。わたしはいつか救われるのだろうか。

 自虐ネタのピエロにでもならなければやり過ごせない人生のまま醜く老いていくことがほんとうに怖い。

 恋愛市場においては女のほうが圧倒的に有利で、受動的に息をしているだけでも差し伸べられる手が多い女のほうが救われやすい分、救われない女でいることはあまりにも惨めだ。

 

 タイムマシンにでも乗って、わたしが将来どこかで救われているだろうかということを確認できればいいのに。

 もし救われていないことがわかれば、潔く諦めて死ぬ覚悟ができるのに。

 

 

 他者という不安定で不確定な存在を信仰し奔走している、愛にしか生きられない自分を見つめていると情けなくなる。

 こんなことをうだうだと考えなくても、無自覚の救済を得てしあわせそうにしている人間を見るとなおさら馬鹿馬鹿しい。

 

 精神科にカップルで来るなよ。理解のある彼くんがいてほかに何を求めるものがあるのだ。

 嫉妬が止まらなかった。わたしが欲しくてたまらないものを持っているくせに、それでもなお不幸そうな顔をしている女がとにかく不快で許せなかった。

 

 

 愛にしか生きられないことが苦しい。しかも、誰でもいいわけじゃないということがなおさら自分の首を絞める。

 先日Tinderで家に来た全くタイプでない男が、突然なんの脈絡もなく「キスしよう」と言い出して気持ち悪かった。勝手に「この見た目の女なら抱ける」と欲情されても気持ち悪いだけだ。

 

 こんなにも愛に飢えているのに、いざ愛(のような顔をした性欲)を向けられた瞬間に選別しようとするからいつまでたっても救われない。

 タイプでない男から向けられる性的な視線はどうしてこんなにも気持ち悪いのか。まだ全く言語化できていないし、気持ち悪さを反芻したくもないのでおそらく言語化することもないだろうけれど、不思議でたまらない。

 

 

 救われたい。望む相手から肯定されない惨めな人生にはもう飽き飽きだ。いい加減そろそろ降りかかってもいい頃だと思う。

 わたしよりも知能や認知能力が低くて、娯楽で時間を消化することでしか生きていない、しかもそれに無自覚な人間のほうが先に救われている理不尽に耐えられない。

 

 

 もう20代も半ばに差し掛かって、女としての消費期限のカウントダウンははじまっている。どうかわたしに若さという価値があるうちに、できれば今年中に救済に導いてくれる人に巡り合えますように。

 ほんとうに苦しい。最近はこんなことばかり考えている。

 

 

 

おもしろいと思われるインターネット

 

 

 こんな時間にカフェインでバキバキに覚醒しています。

 カフェイン過敏症なので、コーヒー牛乳2杯とウーロンハイ3杯で手が震えてしまう。生えかけの親知らずが痛すぎるのでカフェインで痛みをごまかそうという試みだったのですが、カフェイン耐性のほうが先に限界が来ました。

 下を向けばゲボが出てくる気配がする。

 この家に住んで約3年とちょっと、一度もゲボを吐いたことがないままもうすぐ引っ越しを迎えるので、できればノン・ゲボで退居したいところ。

 

 

 最近、自分という人間があまりにもおもしろくないことに驚きつつ悩んでいます。

 わたしのツイッターは、(持ち上げるにしてもアンチするにしても)コンテンツとしてはそれなりにおもしろいと思う。おもしろいと思われるインターネットを心がけているので、刺さる人から見ればおもしろくて当たり前なのだけれど、それを提供しているいわゆる”中の人”の現物がおもしろいかといわれるとそうでもない。

 現在進行形でバーチャル空間にアーカイブされていく”一浪二留ADHD躁鬱メンヘラコンカフェ(元キャバ)嬢芸大生”という看板がレア種なだけで、現実のわたしはそれ以上ではないしむしろそれ以下でまである。

 

 来週以降、フォロワーがごはんを食べさせてくれる予定がぽつぽつ立っていて、奢らせてくださいとまで言われていて大変にありがたいのだけれど、フォロワーがわたしに割いてくれる時間と払ってくれるごはん代に見合うほど、質の高い時間を提供できる自信がないので困っています。

 救済(たす)けてください。

 インターネットがないとわたしってほんとうにおもしろくないんですよ。オタク特有の早口で概念的な理詰めをする中の下ぐらいのブスです。

 

 

 おもしろい人間になるにはどうしたらいいのだろうと考えて、そういえばおもしろい人間ってみんな頭がいいなあという結論にたどり着き、頭をよくするためにとりあえず芸術や思想の本をいっぱい買ったり借りたりしているけれど、もう絵に描いたように典型的な頭でっかちのバカすぎて悲しくなる。

 インプットがなければアウトプットはできないのに、インプットをしているとアウトプットをしていない時間への焦りで消費どころではなくなる。質の低い出力をする暇があるならば、質の高い消費をするべきなのは十分わかっているはずなのに。

 

 ゲボ吐きそうになりながらはてなブログを書くぐらいなら、水を飲みながら積読のひとつでも消化しなさいよ。

 

 

 おもしろい人間になりたいです。でもそれは、インターネットコンテンツをそのまま現実に持ってこればいいという話でもない。

 現実で「ワロタ」とか「草」とか声に出している人間が痛々しいことに代表されるように、インターネットで「エグいてェ!」とか「勝たんしか酒」とか言っても何も盛り上がらないように、インターネットはインターネットだからこそおもしろいし、現実には現実にしかないおもしろさがある。

 早く、インターネットだけでおもしろく生きていればすべてが許される世界を望みます。現実のわたしは、飲酒と喫煙と不審な挙動ぐらいしかできないので……。

 

 

 

 今日、フォロワーに「今までおもしろいと思う人間に出会ったことある?」と聞かれて、「よく考えたらいない」と答えたら、「じゃあ君が誰よりもおもしろいってことだよ」という旨のことを言われたけれど、別にわたしはおもしろくないし、そして仮に今までわたしが出会った人間の誰もわたしよりおもしろくないとすれば、この世でおもしろいのはいったい誰なんだ?

 おもしろい人間って何だ?

 我こそはおもしろい人間だぞ、というフォロワーがいたらDMください。どうしたらあなたのようにおもしろい人間になれるかを勉強させていただきます。

 

 よろしくお願いいたします。

 

 

 

よくも毎日こんなに生きるとか死ぬとか考えられるなあ

 

 

  眠れなくてムカついている。

 一度寝たら15時間とか寝るくせになかなか寝付けない。眠剤を飲んで翌日をポカにするほど暇じゃないし昼からバイトがあるので起きなければならない。

 過眠よりは不眠のほうがマシだというのは眠剤で学んだ。

 

 薬つながりで言うとエビリファイの食欲増進にもムカついている。

 最近なんでか食べたい気持ちを制御できないなと思ったらラモトリギンを減らしてエビリファイを増やしたのだった。

 「デブは甘えではありません!薬で太る人もいるんですよ!」というのをよく目にしていたが、薬で太ってもデブは甘えだと思う。

 夜中に豆腐をあけて塩昆布とごま油で和えてボウルのまま食べてしまった。糖質オフではあるのであまり太らないでいただきたい。

 

 日記をつけているのでわざわざはてブに書くことが少なくなった。誰にも見せるつもりのない文章だからこそ生まれてくる美しい言葉もあったりするのでそれをいくつか紹介して寝ようかな。

 

 

2021/2/14

 生き残ったらまたランチでもスイーツでも何でも行きましょう。

2021/02/25

 われわれも(煙草と同じように)どんどんなくなっている。時間軸に前方に。わたしたちは死ぬために生まれてきている。

2021/03/023

 あの子は人の0.8倍くらいのスピードで生きているし、あたしは人の1.2倍ぐらい生き急いでいる。スピード感が合わなかった。

2021/03/08

 「よるのふゆのうみ」は概念としては美しいけれど、実物は寒くてなんにもなくて夢は夢のままがいちばん美しいのだと思った。

2021/03/29

 3月のにおいは希死念慮を運んでくるので見て見ぬふりをするのに必死だ。

2021/03/30

 メンクリもバイトもめんどくさい。積極的に生きるって感じがしてすごく嫌だ。積極的に生きるってダサい。

2021/04/04

 早く終わりになってほしい。

2021/04/05

 人間だれしも嘘のひとつやふたつ抱えて生きているぐらいがちょうどいいでしょ。

 

 

 読み返してみたけれど、他にもよくも毎日こんなに生きるとか死ぬとか考えられるなあと思った。

 わたしはきっと躁鬱病ではなくても死にたがりの健常者(=ただのメンヘラ)だったと思う。それが行き過ぎて躁鬱病になったのかもしれないけれどもうそれは誰にもわからない。

 生きるとか死ぬとかについて考えることがアイデンティティレベルに染みついているのだ。

 これはもう10代前半の頃からの癖なので仕方がない。

 

 

 最近はたばこを吸うたびに力をなくしていくパッケージがかわいそうであまり吸いたくないと思うぐらいには感受性が豊かだ。わたしが絵描きだったら大量のくたばった空箱をキャンバスで油彩にでもしていると思う。

 たばこってなんでなくなっちゃうのかな。

 ケチだから諸行無常で美しいなんて思えないよ。むしろどうせなくなるものにお金を払っている意味(しかもべらぼうに高い)がわからないぐらいだ。

 

 

 積読がどえらいことになってきた。人から借りた本、美術館のショップで衝動買いしたもの、好きな作家がリリースしたもの。

 これは本当によくないところなのだけれど、消費している暇があれば生産したいと思ってしまって、読書のスイッチを入れてもすぐ消費していることへの焦りで気が散ってやめてしまう。

 インプットがなければなにもアウトプットできないのに。

 しかもその割には𝑰𝑵𝑻𝑬𝑹𝑵𝑬𝑻に浮遊しているし。もうはちゃめちゃだ。

 

 今は幻冬舎新書の「平成精神史─天皇・災害・ナショナリズム」を読んでいる。

𝑰𝑵𝑻𝑬𝑹𝑵𝑬𝑻の声デカおもんなアホリベラルのアンチでいるためにはさまざまな思想を勉強しなければ説得力がない。生存戦略だ。

 

 

 別にリベラルは悪いことではないけれど。勝手にやってくれていればいいのに「声を挙げずに見過ごすことは差別に加担していることに同じ」みたいなことを言われるとクソほど腹立つ。

 見過ごしているわけじゃないけれど、わたしは他人の粗探しが趣味で𝑰𝑵𝑻𝑬𝑹𝑵𝑬𝑻をお気持ち表明で荒らすことで日々のストレスを発散しているお前らよりもよっぽど必死でギリギリで生きてるんだよ。

 マイノリティみたいにマクロな視点で見て生きづらそうだと同情される奴らがうらやましいね。社会から手を差し伸べられる余地があるんだから。わたしにはそういう属性の生きづらさはないので。強いて言えばメンヘラぐらいですか?笑笑

 

 

 全然眠くないな~どうしよう。シン・エヴァのために今更ヱヴァンゲリヲンを履修しているけれど途方に暮れそう。

 Tinderの男の子の家でやっと「破」を見たのでがんばって「Q」を見ているけれどたぶんシン・エヴァを見るなら「Q」よりも旧劇を見たほうがいいんだろう。

 

 その男の子がえらくわたしのGUCCIの香水の匂いを気に入ってくれてよかった。「会った瞬間にいい匂いだなと思った」なんて言われたら、うれしくてたまらないよね。

 なんべん訂正してもCHANNELと言い間違えるところがかわいかった。

 

 まあキャバ時代のお客さんに買ってもらったものなのであまり自分の手柄という気持ちはしないけれど。

 図々しいくせに微妙な謙虚さがあって小さいサイズを買ってもらったことを少し後悔している。どうせなら大きいほうを買ってもらえばよかった。期間限定みたいだし……。

 

 

 期間限定の香水の存在意義がわからない。

 どうせ気に入られてもなくなってしまう匂いならはじめからいなくていいじゃないか。

 せっかく誰かの記憶に残ることができるのに、もう会えなくなるなんて悲しすぎるよ。

 

 

 

他人を否定することしか知らない人たちの暴力性

 

 

 ここ数日、四月末に引っ越しをするべく断捨離に取り組んでいる。

 収集癖と所有欲の最悪のコンボによって我が家の1Kには物が多すぎる。収集癖によってたくさんの物が搬入されるし、所有欲によって物を捨てられない。

 物に命が宿っている、とまでは思わないが、物にも四次元的な要素は存在する。誰かのものとして時間を過ごした彼らには、その時間の分だけ人間でいう人格に近しい何かが備わっていると思う。

 京都市指定のゴミ袋の45リットルが6袋パンパンになってもなお物が多い。多いとは思うけど捨てられないのだ。ゴミ袋の中からこちらを覗く"所有主によってゴミ(=価値のないもの)と認定されたものたち"ににらまれるとひるんでしまう。

 

 

 引っ越したい理由のまずひとつは部屋に洗濯機がないことだ。うちのマンション(ハイツ)は部屋に洗濯機置場がなく、ベランダらしいベランダもないので室外にも洗濯機置場はない。その代わり、屋上に共同の家庭用洗濯機が置いてある。

 

 ひとり暮らしをはじめたときは、「洗濯機買うお金浮いた~♪」という思いで嬉々としてこの物件を選んだのだが、3年も経つと生活が限界レベルに怠惰になるので、数キロの洗濯物を抱えて階段をのぼるのが面倒で洗濯をしなくなる。

 しかし洗濯をしないわけにはいかない。わたしにはまだ社会に適合しようという意思が残っているから、服を着替えなければならないのだ。

 

 

 そもそもひとりぐらしを始めた理由は、毒親(母)から逃げるためだった。

 うちの母は端的に言うと頭がおかしい。詳細は省くが、アスペルガー気質と認知の極端な歪みによる最悪のコンボが人格において繰り広げられている。

 数少ない友人のうち、さらに少ない何人かの友人は母と顔を合わせたことがあるのだが、みんながそろって「……qusai_sochiのお母さん、やばい人だね(笑)」というような感想を後日聞かせてくれる。

 

 頭のおかしい人は自らの頭のおかしさゆえに、自分の頭のおかしいことを知らない。

 18年間ともに暮らしてきたが、あいにく双極性障害まで患ってしまって(当初は適応障害だった)、人生をいわゆるイージーに過ごすことが厳しい。

 

 このままではわたしはわたしの人生の主人公になりきれないことを確信をして、実家から大学が遠いこと(片道2.5時間)を口実に、大学の単位を捨てて週7のアルバイトに魂を売って25万ぐらい貯めて、なんとか父の協力を得て水面下で動いて突然家を出た。3年前の年末年始には14連勤をした。

 

 母はいまだにわたしが家を出た理由が実家と大学との距離だと信じ込んでいるので、わたしが母をよく思っていないことを知らないし、定期的にランチに誘ってくる。貧乏大学生としてタダ飯にあやかり毎回なんとか精神をすり減らしながら行っているが、いつも実家に帰ってこないかと打診される。そのたびに無自覚の暴力に悲しくなる。

 アスペルガー気質によって友達がおらず、わたしや弟のために生きることが人生の主題になっている彼女からそれを奪ってしまうことに罪悪感がある。産んでくれてありがとうとは一切思わないけれど、わたしを心の拠り所にしていることを平然と否定する残酷さは持ち合わせていない。

 

 

 はじめてこの部屋に住むことを決めたとき、内覧に来て一発で決めた。ほかにも候補はあったのだが、とにかくお金が25万円しかないので初期費用を浮かすことがまず最優先だったため、家賃が安く、敷金礼金もなく、コンロとエアコンと共同洗濯機が設置済みというこの部屋で即決した。

 今思えば、それがよくなかった。最低条件と妥協点は紙一重である。

 次の部屋の候補はすべて室内または室外に洗濯機置き場がある。そこだけは譲れない。エアコンはほしいけれど、コンロはなければ自分で買うつもりだ。

 

 

 昨年からうっすらと引っ越したいなあという気持ちを高めつつあったのだが、今年に入ってからその気持ちが明確になった。騒音の苦情が入るようになったからだ。

 どうもわたしの部屋はうるさいらしい。

 まずドアの音がうるさいらしいのだが、それはこの部屋のドアが悪いと思っている。古いハイツなのでドアの仕組みなのか錆なのか判断のつかない何らかの原因で、静かにドアを閉めることが難しい。初めてうちに来る人はまずドアの閉め方に苦労するし、そのたびに大きな音が鳴る。

 

 一方で、うるさいと言われれば確かに納得する。基本的に生活リズムが夜型にずれているし、仲のいい友人もたいがいそうなので、深夜帯が一日のうちでいちばん暇だから、いちばん人を呼ぶことに適している。

 だいたいわたしはお酒を飲んでいるので声が大きい。それは友人も然り。

 さらにわたしはTinderで遊ぶ趣味があるので家にいろいろな男性を連れ込んでいた時期もあるし、その果てにはもちろんセックスもしていた。

 そして騒音の極めつけはADHDムーブの鈍臭い生活音だ。今さっきも思い切りギターを倒した。

 

 深夜の客呼びと飲酒とセックスとADHDが揃うこの家がうるさくないわけがないのだ。

 うちのハイツの隣には大家さんの一軒家があるので、クレームを直訴できる仕組みになっている。そして最近、大家さんを通じてクレームを入れられる回数が増えた。

 

 正直、ムカつく。

 わたしがわたしらしく生活しているところに他人から文句を言われる筋合いがない。わたしがうるさいんじゃなくてお前らが静かにしようとしすぎるんだよ。みんなで好き勝手に暮らせば平等に騒がしくもできるのに、静かな暮らしを正しさとして他人を捻じ曲げようなんておこがましいにもほどがある。

 実際、わたしの上の階の住人は明らかに生活音ではない床との衝突音が定期的に激しく鳴るのだが、わたしはクレームを入れたことはない。おそらく男子大学生だと思われるが、彼は彼で楽しくやってくれればいいと思っているからだ。

 

 

 自分の正しさをもって他人を否定する人たちがほんとうに怖い。みんな正しいんだよ。自分の正しさを証明する方法として、他人を否定することしか知らない人たちの暴力性には常々辟易する。

 自分が正しいというのは大前提だけれど、それはみんな同じだ。みんな自分が正しい。正しさと正しさがぶつかり合っていざこざは起きる。いざこざの起きないぶつかり合いというものを想像できない人たちがあまりにも多い。

 自分が正しく生きることと、他人が正しく生きることの中庸について考えることのできる人がどれほどいるだろうか。

 

 わたしは己の正しさに則って正しく生きていきたい。でも、他人の正しさを否定しない形で正しくいたいと思う。

 固定のアンチが湧くほどに人格がひねくれていて、お世辞にも善人とは呼べないが、それでもわたしは世界中のすべての人たちの精神世界の平和を祈っている。

 

 

 明日(日付が変わって今日)、不動産会社に候補の部屋の内覧の予約を入れた。近々、新生活がはじまる。この時期に物件を探していると、まるで新入生や卒業生のようだけれど、しっかり留年して5年生になる。

 家賃は現在より2万ほど高くなるが、ないお金は稼げばいいということを14連勤で学んだ。

 コロナ禍の接客業アルバイト収入では限界がある。もっともっとクリエイターとしての質を高めて、需要の絶えない副収入でなんとか補いたい。精進します。

 

 

 

誰かにとっての神様になって救いを与えること

 

 

 4~5日前に友人が自殺未遂をした。日程から死への道のりをきちんと知らせてくれていて、なんて確固たる意志で積極的に死に向かう子なんだと感心するほどだった。

 いろいろアウトな部分があるので詳しくは書かないけれど(とはいえ察しのいい人ならわかると思う)、わたしはとある手段で彼女の背中を押した。

 死にたい人の死を応援することがその人のいちばんの救いだと思うから。死にたい気持ちを自己満足のきれいごとで無責任に否定されることほど胸糞の悪いことはない。

 

 自殺を引き留めるということは、その人の生き地獄が続くことを祈っているに等しい。残酷にもほどがある。

 結局その子は死ねなくて、生きて目を覚ましたときにご丁寧に電話をかけてきてくれて、自殺の実行から失敗までの流れも説明してくれた。おもしろい。本人も笑っていた。

 

 すると今日の昼ごろに弟から「友達が自殺未遂してんけどどうしよう」というラインがきて、自殺未遂が流行っているのか?と思った。

 同じ家に住んで同じ親に育てられて同じものを食べて育っても、こうも自殺についての価値観が違うのかと驚いた。

 弟はどうしても引き留めたいらしかった。理由は、死なれると悲しいからみたいな感じだったと思う。

 

 わたしは、友人が自殺をすると聞いたとき、ちっとも悲しくなかった。やっとこの子が苦しみから解放されて楽になれるのだなと、これまでいろいろな話を聞いてきたわたしまで報われる思いだった。

 わたしと弟のどちらかだけが正しいなんてことはない。どっちも正しい。死生観なんて人の数だけある。弟のような考え方がマジョリティだから、自殺者を減らそうなんて風潮が社会に蔓延しているのだろうけど。

 自殺者数が減ったところで、生き地獄に救われない人間の数は変わらない。

 

 

 感情論で自殺を引き留めるのは残酷だ。その人の本質を絶対的な救済に導くほどの約束もできないのに、他者の生死に干渉するなんて無責任な一方通行の執着でしかない。こんなものは愛と呼ぶわけにはいかない。

 人が死んで会えなくなることと、疎遠になったかつての旧友に会えなくなることの違いがわからない。最後というものはひっそりと日常に溶けている。もう二度と顔を合わせることがなくなるという点では何ら変わりはない。

 大切な人の死と、どうでもいい他人に会えないことはたしかに精神的なエネルギーを考えると並べるべきじゃないのかもしれないけれど、それにしても遅かれ早かれ人間は死ぬ。自分が先か大切な人が先かはわからないけれど、いつか二度と会えなくなる日がくることは産まれてきた瞬間から決まっている。

 

 自殺とは、その最後の日を自らの手で決めるというだけなのだ。いのちの上でもっとも尊重されるべきものである。

 自殺幇助が罪に問われる意味が分からない。誰かにとっての神様になって救いを与えることには無償の愛がある。死んだら何も返ってこないので。

 わたしはれっきとした無宗教であるが、神様ということばがとても好きだ。二十数年生きてきて、たくさんのことを知ったけれど、神様には会うことができないから、存在しない概念に無限の夢を見ることができる。

 

 

 弟はその子に死なないでほしいそうなので、まあ死にたがりが思いとどまろうとしそうなことばをいろいろ送ってなんとか今日は引き留められたらしい。

 「わたしがいなければこの世の何もかもがうまくいったのに」に対して「もういてしまっているのでそんなたらればは実在しないし、少なくとも他人を悲しませるという影響力がすでにある」的な返しをさせた。

 メンヘラにはド正論が効く。

 

 なんとかうまくいきそうな流れになったらしく、姉がメンヘラでよかったね、と言った。持つべきものはメンヘラの姉。大事なことはなんでも教えてくれる。

 

 

 わたしは冬にしては元気だ。年末と二月前半に爆裂な鬱がくるのがもう毎年のことだったけれど、いまはとてもはつらつとしている。いろいろな案件の〆切を抱えて、誰かに会う予定もいろいろ立っていて、生きる気力に満ち満ちている。未来の日付の約束とは、その日まで生きていますよという誓いである。

 これが躁転なのか寛解なのかはもはや自分ではわからない。のちのち鬱になってから、そのコントラストではじめてあれが躁転だったことに気づく。

 もし寛解だとしたらとてもうれしい。とんでもない量の薬を飲んでいるけれど、元気でいられるならなんでもいい。

 

 そういえば自分はもともとはつらつとした人間で、好奇心に向かってまっすぐで、あれこれ手を出す子供だったのだ。そのときのマインドを取り戻しているようで、やっと本当の自分を取り返すことができた。とてもうれしい。おひさしぶりです、おかえりなさい、と言いたい。

 

 

 これが死ぬまで続けばいいなと思う。死に向かって生きているのだから、楽しいほうがいい。

 どうか寛解でありますように。