こんなふうになりたかったわけじゃないのに

 

 

 仕事をやめた。もう働けないと思った。どうにも隠せないADHDに自己肯定感をゴリゴリ削られながら、思うように動けない身体にむちを打って、13万円前後の手取りでしばらく暮らしつづけるのは無理だ。

 やっぱり6月ころに充実してやっていたのは躁転だった。ずっとこういうことを繰り返している。そのたびに履歴書が傷だらけになって、まともに生きていける選択肢が減っていく。かならずしもまともに生きていく必要はないし、この社会に適合しなければ人であらずとかは思わないけれど、まともなふりをしていないと経済的に困るし、生活がままならなくなるのだ。道徳とか規範とかそういうぼんやりしたところではなく、最低限生きていくためのところで、みるみるうちにどうしようもなくなっていく。

 

 わたしがクローズ就労の週5フルタイムにこだわっていたのは、障害を乗り越えて生きるがんばり屋さんとしての自分を実現して、そんな自分を好きになりたかったからだ。ありのままの自分を愛せないから、好きになれる自分を実現することで後から自分を愛せるようになればいいと思っていたけれど、無理なものは無理だということがわかった。限界がくるまで気づけなかった。

 でもこれは甘えなんじゃないかとも思う。ぜんぶをビョーキのせいにして、がんばらないでいいほうを選んでいるような気もする。だってみんなはしんどくてもなんとかやっている。わたしはただサボっているだけなのかもしれない。ぼろぼろになったふりをして、同情を買うことでサボることをゆるされようとしているのかな。がんばらなくていい理由をさがしているだけのように思う。

 

 仕事をやめたけれども収入の目処は立っていない。就労移行支援事業所の見学は来月の半ばで、飲み屋のバイトもさすがに生活を成り立たせられるほどのものでもないし、障害年金不服申立てをする予定ではあるけれど支給されたとてかなり先にはなる。

 しばらくは父親ができるかぎり支援してくれると言ってくれている。素直に甘えればいいのだけれど(というかつべこべ言っていられないくらいには現状がやばい)、どうしてもやっぱり過去のことが引っかかる。彼にしてみれば罪滅ぼしで償いであるようだけれど、きっとほんとうのところはどれほどの罪かというところを理解はしてくれていない。そして、いつまでも過去のことを引きずっている自分も情けない。わたしは親のせいにするというかたちで精神的に依存している。それでも恵まれているのだから、思う存分これを享受すればいいだけなのだけれど、そうすると確実にこころは蝕まれる。

 いったいいつまでこのように情けない暮らしをしていくのだろう。はやく自立したい。焦れば焦るほど、空回りしてうまくいかない。

 

 救いの手を差し伸べてくれる人たちがたくさんいる。ほんとうにわたしは人間に恵まれている。みんなきっと自分のことで精一杯のはずなのに、赤の他人であるわたしのことまで気にかけてくれるだなんて、並大抵のことではない。そんな人たちに時間やお金などのリソースを割くことを強いる自分がゆるせない。だから強がって払いのけようとしてしまう。そうして好意を無下にしてしまう。どうするのが正しいのか、もうわからない。

 わたしは孤立か依存かのどちらかしかできない。ほどよいところがどうしても苦手だ。最後まで救いきれないなら、はじめから救おうとしないでほしいだなんて思ってしまう。こうしてたくさんの人たちを搾取して傷つけてきた。

 寄生先の男を転々としているうちに27歳になった。性欲にあぐらをかいたコミュニケーションばかりうまくなっていく。相手の性欲フィルターで粗相をゆるされることに甘えている。どうして母親との確執が原因にあるはずなのに、父親代わりのような愛に飢えているのかと考えてみたところ、きっといまのわたしにとってかつての母親の脅威はこの社会で、喉から手が出るほどに救いの手を差し伸べられたかったけれども無視されてきた父親からのトラウマが根底にあるのだろうという結論に至った。親から得られなかった無償の愛をずっとさがしている。そのたびに破滅する。こうしてまた親のせいにする。ほんとうにいい加減にしてほしい。

 わたしの人生をやっていくのは親ではなくわたしだ。主人公の座を奪還するために自分でやってきたことに苦しめられている。自分で選んだ道ならば後悔しないだろうと思って突き進んできたけれど、ここまでくるとまちがっていたかもしれないと思いはじめる。でも、こんなことを言っていてもしかたないな。なんとかやっていくしかない。

 

 

 今日は大好きなバンドのライブに行ってきた。「ベランダ」というバンドで、ここのところは彼らの音楽を聴いてなんとかやりすごしている。とてもやさしい音楽でありながらもどこか棘があって、生活はただ穏やかに過ぎていくだけではないという諦念をもちながら、それでも絶望しきることは寂しいことだということを思い出させてくれるバンドだ。

 お金はないけれど、それでも今日行かなければ後悔すると思った。なんとか収入を挽回させられることを未来の自分に託して観にいった。

 ライブハウスに着いて、手持ちが300円足りないことがわかった。PayPayは使えないライブハウスで、キャッシュカードはおうちに忘れたために入れてもらえず、おわりだーとなっていたところに、たまたま所用があって近くにいたアイドルオタク時代の友達が貸してくれることになった。ほんとうに助かった。こころの調子が悪いために周囲の人間がおそろしく見えていて、それに耐えながらなんとかきたところに突き返されるという結末でなくてよかった。

 最近は「エニウェア」という曲をいちばん聴いているのだけれど、かなり昔の曲なので聴けないかなと思っていたところに演奏してくれたので、思わず大泣きしてしまった。わたしっていまほんとうに限界に近いのだなーと他人事のように感じながらボロボロ泣いていた。

 

 ここ数年、あらゆる感情がひとつのビニールの膜越しにあるような感覚がある。ほんとうにうれしいとか、ほんとうにかなしいとか、他人に伝えるときはなるべく言うようにはしているけれど、じつはあんまりよくわかっていない。ぜんぶの感情がにせもののような気がしている。なんでかなー。

 それでもやっぱり観にいってよかった。6年ぶりのアルバムのリリースツアーで、フロントマンの髙島くんが「何もしていないと何もしていないと思われる世界だけど、おれたちは生活をしていました」と言っていた。生活はつづく。誰からも見えないところにひとりひとりの生活がある。みんなのそれを忘れてはいけないし、わたしのそれも忘れないでほしい。

 

 

 どうしてこんなにわたしのメンタルヘルスの現状を伝えているのに、くそどうでもいい相談や質問が絶えないのか。あいつらには人のこころがないんかね。わたしはわたしのことで精一杯になっていますと言っているのに、どうしておまえのぶんまで背負わされなければならない? こちらの良心につけ込んで、図々しく踏み込んでくるやつらが多すぎる。ちょっとは自分の力でなんとかしろよ。どうせ無料で話を聞いてくれるならわたしじゃなくてもいいくせに。都合のいいときだけ「わたしにはバカデカい愛さんが必要です😿」なんて擦り寄ってくるんだよ。いつかわたしのことがいらなくなったらポイ捨てするんだろ。どうせそうなるなら最初から近づいてこないでほしい。 

 人間として扱ってほしいというのはそんなにわがままなお願いかしら。画面の向こうに生活があることを忘れさせる作用のあるインターネットが悪いとはいえ、そこに想像力をはたらかせるかどうかは人それぞれなわけで、はたらかせられる人がきちんといるぶん、はたらかせられない人は怠慢だと思う。

 

 わたしは知らず知らずのうちに偶像になっていたみたいだ。人間性をうばわれたのか、みずから手放してしまったのか、どちらにせよ、こんなふうになりたかったわけじゃないのに。まあでも、インターネットなんかに本気になって、いちいち傷つく自分もめんどうくさい。仮想空間に人間関係や趣味などのすべてを置いてしまったがために、インターネットがなくなるともう何もできなくなる。天井を見つめることぐらいしかできることがない。

 はやく健康になりたいよー。耐え忍べばいつかまた楽になれるかな。いらいらしたり、急に泣き出したり、ネガティブにいそがしい。くるしいよー。