ありがたみというか、やさしさのようなもの

 

 

 両親が死ぬ夢を見て、慌てて実家に帰った。1~2か月に一度、親のどちらかが死ぬ夢を見る。今回はすでに母の死んだ世界で、父の自殺を止める内容の夢だった。現実の通りに不仲で、全く後追いでも何でもないのがリアルだった。

 

 世間はコロナウイルスとそれに伴う政権批判で持ち切りで、お国から移動の自粛を推奨されているので、この春休みは帰省するつもりではなかったのだが、こうも夢の中で死なれると不吉な気分に引きずられる。
 実際に、よほどのことがなければ当然親のほうが子供より先に死ぬ。いずれはただの夢でなくなってしまう。ということを常に念頭に置いておくのは難しい。
 ひとり暮らしをしていると、親のことなどきっかけがなければ考えつかない。自分とその身のまわりのことでいっぱいだ。

 

 本来は1泊の予定だったが、母が寂しそうだったので2泊してきた。3泊目も「あしたのお昼帰ったらいいやん、学校あさってからなんやろ?」とすすめられたが、どうせだらだら居座っても、寝る、インターネットに浮遊する、食べるぐらいしかすることがないので帰ってきた。
 あと持ってきているラモトリギンとクエチアピン(クソまずい気分安定薬とめちゃくちゃ寝れる眠剤)も足りなかった。実家にいていちばん緊張するタイミングは、深夜にこっそり隠れて薬を飲む瞬間。

 

 

 食卓につくたびに自分の好きなものばかり出てくるので、部屋に戻ってこっそり泣いた。親というのは、子供が小さいうちは物を買い与えてくれるが(親によって子供の好みが決まるところも少なからずある)、だんだん子供も大きくなって、おこづかいやアルバイトで好きなものを買うようになると、途端に好みがわからなくなる。
 そんな中でも、好みがわからないなりに、知っている情報で精いっぱい喜ばせるために、好きな食べ物ばかりを出してくれるのだと思う。


 親のごはんを食べられる回数にはもう限りがある。あと30年生きてくれるとして、GW・お盆・年末年始の年に3回帰省して、そこで3食すると仮定すれば、270食だ。それなりの数字に見えても、実家に住んでいるときの1年分にも満たない。
 しかも今回のように、たまにしかない機会だからとご機嫌になった母が寿司の出前を取ってくれたりすると、さらに食べられる回数は減る。

 

 パパのチャーハンはいつもパパのチャーハンの味がするし、ママの肉じゃがはいつもママの肉じゃがの味がする。よそのチャーハンはよそのチャーハンの味で、よその肉じゃがはよその肉じゃがの味。
 けれど、親の作っているところを見ても、計量スプーンやはかりできっちりはかっているわけではない。目分量なのに、いつも安定して同じ味がする。
 わたしが自炊しても、そんな風にはならない。目分量でつくると毎回味が変わるし、いつもよそよそしい他人の味がする。どういう仕組みなのだろうと実家に帰るたびに思う。

 

 

 決して円満な家庭ではなかった。暴力をしつけとして正当化する母と、見て見ぬふりの父。おかげさまで姉弟そろって性格が不健康に歪んでいる。
 過保護に育てられた弟の生きづらそうなツイート(鍵垢からリストで監視している)を見ていると、過干渉に育てられた自分とそっくりで笑える。過保護も過干渉も、人としての扱われ方は正反対でも、根本の原理となる精神は同じなのだ。ひとえに親の自己愛の押しつけと、それに対する無自覚。

 それでも、「ひとり暮らしをすると親のありがたみがわかる」という定説は、悔しいけれどその通りだった。ありがたみというか、やさしさのようなもの。
 親からすればもはやただの義務感になっているだろうが、なんで人の食べたお皿洗わなあかんねんとか、なんで人の履いた靴下触らなあかんねんとか、(思っていたとしても)いつも洗ってくれるのはやさしさだった。
 もちろんすべての家庭がそういうわけではないし、たまたまわたしの親はやさしかっただけ。親ガチャの運がよかった。


 それに気づけたからといって、特にお返しができるわけでもない。
 大学の友人に課題を代わりにやってもらって、お礼にラーメンを1杯おごるとか、そういう次元の話ではない。もっと大きなやさしさ。もはや大きすぎて、売り物ではお返しに値しないぐらいのもの。
 産んで育てた親としての喜びは、きっと産んで育てた子供が元気でいることなんだろう。さらに立派な社会的地位を獲得できればモーマンタイ。それがいちばんのお返し。
 しかし、その元気を見せるために実家に顔を出すと、そこでもおもてなしをされてしまう。どうやっても親には敵わない。

 

 

 両親ともに(特に母)、極悪非道人であってくれればもはや完全に敵として切り捨てられたのだが、そういったやさしい面も十分にあるせいで、幼い頃の記憶にある親像と現実とのギャップがたまにしんどい。
 それでも、いつまでも恨んでいても仕方がないし、誰も得をしないので、目の前に差し出されるやさしさを素直に受け取って、彼らが健康であることを願いながら、わたしは生きていくべきなんだろう。

 

 どうか生きている限りは元気でいてください。また帰ります。