アートは綺麗事を唱えて大衆を味方につけるための道具ではない

 

 3/29(月)、Chim↑Pom「ハッピースプリング」展を森美術館で見た。わたしはかねてからChim↑Pomのファンであり、卯城竜太Chim↑Pom)・松田修「公の時代」は昨年一年間で読んだ本の中でもトップレベルに面白かった。

 

 一番のお目当ては「気合い100連発」だった。

 3.11直後の福島県相馬市で、ボランティアとして現地に足を運んだChim↑Pomと、地元の若者の合わせて10人が円陣を組み、津波によって大きな被害を受けた海ぎわで「復興がんばるぞ!」「福島最高!」「放射能最高!」とアドリブで叫んでいる様子を記録した映像作品である。あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」でも展示されたので大きな話題となった作品だ。

 

 わたしはこの映像作品をどうしても美術館で観たかった。

 スーパーラットや「また明日も観てくれるかな?」のアーカイブなどを足早に(それでもしっかりと)観ながら、ようやく「気合い100連発」のブースにたどり着いた。家が津波に流されたこと、大切なものをたくさん失くしたこと、放射能が故郷を汚すことに由来する、恐怖や不安、絶望や悲しみを持ち寄って、互いを鼓舞する若者たちの切実な叫びの記録が、あまりにも切なくて、プロジェクター前のソファの上でしくしくと一人で泣いた。

 

 Chim↑Pomはしばしばラディカルなアーティストと評されるが、そんな一筋縄なことばでまとめられるようなアーティストではないとわたしは思う。ネトウヨからは当然ひどく疎まれているし、ネトウヨでなくても彼らを好ましく思わない人も多いだろう。彼らの試みの多くは露悪趣味的で、センセーショナルで、下品で、一見幼稚に見えるからだ。

 しかし、本質のところは、(ことばにしてしまうと様々な感情が拾いきれないが)とにかくすべてが平和への祈りなのだ。

 Chim↑Pom福島原発の他にも、被爆地・ヒロシマアメリカの国境、都市論やジェンダー論などのトピックについて、アートを介して人々に問いかけている。こんなにも挑発的に、わかりやすく、それでいて切実に平和を祈るアーティストは(少なくともわたしの知る限りは)いない。

 

 そのChim↑Pomが、先日アーティスト名を「Chim↑Pom from Smappa!Group」へと改名した。

 Smappa!Groupは、新宿・歌舞伎町でホストクラブを運営するグループだ。

 今回、「ハッピースプリング」を森美術館で展示をするにあたって、様々な企業からの協力金をChim↑Pom側から集めることになったが、森美術館側はこのSmappa!Groupの申し出だけを断り、「六本木というまちづくりの顔となる美術館のブランディングの方針として、水商売の会社のロゴは掲載しない」と答えたことが発端になっている。

 

 まちづくりは、ときどき排除アートと揶揄されるように(宮下公園が有名だろう)、ジェントリフィケーションの負の側面を明るみにする。

 森美術館は六本木のまちづくりのために、水商売を排除した。一方で、同美術館は「アナザーエナジー展:挑戦しつづける力─世界の女性アーティスト16人」という企画を、美術の世界における性別・年齢・国籍などの多様性を掲げて展示した。

 この展示の他にも、館長が多様性についてインタビューを受けている記事はいくつもある。参考までにリンクを貼っておこう。

 

www.sankei.com

 

bijutsutecho.com

 

 どうして性別・年齢・国籍などの属性には配慮しておきながら、職業だけを排除するのだろうか?

 

 

 アートにおいて、性別・年齢・国籍など、生まれ持ったものについて多様性を謳うことは簡単だ。ただ属性の異なる作家をひとつの企画に呼んでキュレーションすれば済むのだから(思いつくのは簡単だという意味で、実践が簡単だという意味ではない)。そしてそれを謳っておけば、鑑賞者からは「新しい価値観に適応した美術館だ!」と持て囃される。

 しかし、アートは綺麗事を唱えて大衆を味方につけるための道具ではない。一度でも多様性について触れたのであれば、そこからこぼれ落ちていったものひとつひとつと丁寧に向き合う義務がある。それを放棄している限りは、差別主義者と変わらない。

 

 水商売には負のイメージが伴う。わたし自身、学業のかたわらアルバイトとして4年間やっているので、水商売の女として差別的な目を向けられてきたことも多々ある。別に、ただの個人から職業差別をされてもハイハイと聞き流すことができる。勝手に言わせておけばいい。

 ただ、多様性を謳う現代美術の美術館がそれをするのはダブルバインドだろう。森美術館は誰のために多様性を謳っているのか?森美術館の提唱する”現代アート”は誰のためにあるのか?

 ただ綺麗な多様性を掲げて、綺麗なアートだけを飾って、大衆からお金を巻き上げて、大衆を綺麗な気持ちで帰らせるだけで、大衆によって未だ許されている差別には平然と加担する美術館に、”現代アートの美術館”を名乗る資格があるだろうか?

 

 

 

 そして、質問箱にこのような質問が送られてきた。

 

 

 質問がなかなか抽象的なので、ここで言う「権力」が一体何を指しているのかは察するしかないのだが、Chim↑Pomへの批判をいろいろ見てみたところ、永瀬恭一氏や大野左紀子氏のこの辺りのツイートが元っぽいので、それと仮定して話を進めることにする。

 

 協力元となるはずだったSmappa!Groupの名前を冠するにあたって、ここで批判されるべきはChim↑Pomではなく、森美術館、そして展示にかかる資金をアーティスト側が自力で調達しなければ成立しない日本の現代美術と資本主義の関係性だとわたしは考える。

 森美術館の管理運営は森ビル株式会社であり、民間企業による運営である。税金が投入される美術館ではないので、パブリックな美術館に比べれば比較的キュレーションに自由がきくし(このこともまた別の問題を孕んでいるが)、現代美術のアーカイブのような役割が期待されるわけではない。あいちトリエンナーレが公金の使い道という点でネトウヨたちから批判されたように、おそらく今の日本の公営の美術館ではChim↑Pom展は開催できないだろう。

 なぜ森美術館が協賛企業をアーティスト側に探させたのかはわからないが、おそらく森美術館の持つ資本だけではあの規模の展示は成立させられないのだろう。

 

 日本の資本主義は美術(とりわけ現代美術)に無関心である。アート市場の経済規模は海外のアートシーンに比べても小さい。実際、「ハッピースプリング」の協賛企業は、アートやデザイン関連の企業が主に名を連ねている。いわゆるアートに理解のある企業くんが少ない。

 Chim↑Pomは他の日本のアーティストに比べて強い政治性を帯びたアーティストであるために、そこに協賛するということはあらゆる方面からの批判(それらのほとんどが的外れであったとしても)にさらされる覚悟が必要だとは思われる。

 しかし、ここでラディカルなアートを支援することに怖気付いて、政治についてさも中立的であるかのように振る舞う事なかれ主義なところに日本の資本主義の弱さがある。政治的でないというスタンスもまた政治的であることに無自覚なのか、それをあえて無視しているのかは定かではないが、どちらにせよ政治的なものとは距離を置くことがスタンダードとされている限り、日本の現代美術と資本主義の間の溝はどんどん深まる一方だろう。

 アートと資本主義というのは元来相性が悪いものではあるが、それを言い訳にしていてはアートは衰退していくし、資本主義もまたここに生きる人々を不幸にして破綻するだろう。アートと資本主義の共倒れの危機にある今、資本主義側がやるべきことは、アートに歩み寄る覚悟を持つことではないだろうか。

 

 

 アーティスト・コレクティブの話題に移ろう。上記の質問箱で言われている「仕掛け」ということばがどういう意味で用いられているのか、これもまた推測するしかない。

 現役のアーティスト・コレクティブにはChim↑Pomの他にも、パープルーム予備校やcontact Gonzoなどが挙げられるだろう。60年代のハイレッド・センターや80年代のダムタイプもそうだろう。個のアーティストで美術を開拓する従来の戦い方ではなく、アーティスト同士がぶつかり合うことで生まれるエネルギーで新しい美術の枠組みを提案する戦い方だ。

 この戦い方に救われてきたアーティストは少なくないだろう。ただのアーティスト集団ではなく、メンバーそれぞれがアーティストとして強いイデオロギーを持ち続け、それをアートとして融合させることに意味がある。三人寄れば文殊の知恵のようなもので、アートに対して一人でできることには限界があるし、この戦い方はこれからの現代美術にも必要とされるだろう。

 

 

 Chim↑Pomはアーティスト・コレクティブという仕掛けを利用して、ただ自身をコンテンツ化して現代美術シーンのアーティスト・コレクティブ・ブームに乗っかったにすぎないのだろうか?

 

 現在主流となっているアーティスト・コレクティブの最盛期はおそらく00年代後半〜10年代後半だろう。

 当時のわたしはアートのアの字も知らないお絵描き中高生だったので、当然それが流行っていたなどの実感もなく、ただインターネットに残されたアーカイブ美術手帖などの雑誌を読んで後から追うことしかできないのだが、今やアーティスト・コレクティブという戦い方は全く新しい手法ではないし、むしろ現代美術シーンで成功した勝ち組のアーティスト・コレクティブの仲間に入れてもらうことは光栄なことであると(一般的には)されているぐらいには、現代美術の枠組みの中でのひとつの規範のようなものになってしまっている。

 

 Chim↑Pomが結成されたのは2005年だ。現在のアーティスト・コレクティブの潮流の中では少し早い方だと思われる。とはいえ、ハイレッド・センターダムタイプなどの先人たちが現代美術に残したさまざまな形跡のことを考えると、やはり新しい手法とは言えない。しかも、アーティストとしてデビューした場所は会田誠氏の個展会場の一角だ。彼らは初めから現代美術シーンにズブズブなのだ。

 これらを見ると、一見ラディカルと評される斬新なことをやっている彼らも、誰も言わないようなことを誰もやらない方法でやっているというだけで、システムとしては目新しくない。

 

 とはいえ、卯城竜太氏、エリイ氏、林靖高氏、水野俊紀氏、岡田孝氏、稲岡求氏の6人のそれぞれがソロのアーティストだったら、定期的にタッグを組む現代美術の世界の仲良し6人組だったら、ここまでChim↑Pomは現代美術シーンの勝ち組になれただろうか?

 わたしは、Chim↑Pomがアーティスト・コレクティブの枠組みを利用したのは、彼らの戦略だと考えている。いわば左翼的な平和への祈りを、Chim↑Pomというキャッチーな名前で、挑発的な態度でセンセーショナルに、しかし思想の基盤はしっかりと固めながら、アートの文脈をもってして実行する。Chim↑Pomが結成された2005年から現在に至るまで、日本の現代美術シーンに彼らと同じフィールドで肩を並べるようなアーティストがいなかったからこそ、Chim↑Pomは現代美術の勝ち組となったのだ。それを彼らははじめから見越していたのではないだろうか。

 

 彼らのような”真面目に不真面目”的な態度を貫くアーティストが今や日本の現代美術の優等生となり、お手本のような立ち位置になっていることは皮肉ではあるが、美術史とはアーティストの起こす革命の連続体だ。革命にはコンテクストが必要不可欠である。ぽっと出のビギナーズ・ラックでは革命を起こせない。

 ほとんど飽和状態にあり、新しい"アート"の提案が難しい現代美術の世界で、Chim↑Pomはタイミングよくうまく"目新しくはないが誰もやっていないこと"をやってのけた。

 

 彼らにとって、アーティスト・コレクティブというものははじめから ”仕掛けにすぎない”のではないか。いまさら「仕掛けを利用したにすぎない」という批判がなされたとて、そもそもはじめからそう意図しているのだからそりゃあそうだろう、ということにしかならない。このようにわたしは推測している。

 

 

 以上をもって、上記の質問箱への回答とさせていただく。

 Chim↑Pomの擁護に偏ったのはChim↑Pomへの愛ゆえでもあるが、たとえわたしがChim↑Pomのアンチだったとしても、森美術館のやり方は間違っていると非難するだろうし、Chim↑Pomは結成当初からアーティスト・コレクティブの構造を利用する気だったのではないかと書くだろう。

 バイアスのみで出した結論ではないことをご理解いただきたい。

 

 普段アートについて語ったとしても140字×3のリプライツリー程度で、主語の大きいざっくりとした根拠のないお気持ち表明で、何かを引用して長文を書くという試みはほとんど初めてだった。とても苦しく根気のいる作業ではあったが、半年後に大学院入試を控えているのでいいトレーニングになった。

 そして、参考にするためにさまざまなアーティストや批評家の意見を主にTwitterで見たが、己の不勉強さを実感した。彼らの思考のレイヤーの深さと、アートの当事者としての意識には到底叶いそうにないことに絶望した。まだまだ読まなければならない本がたくさんあるし、同時に現代美術を追わなければならない。

 

 この記事に書いたことの全てが稚拙に見えて恥ずかしくなる日が来ることを自分自身に期待している。