資本主義社会の失敗作

 

 

 障害者雇用の求人に落ちまくる。正直なところ、障害者向けの就活をかなりナメていた。どうせどこかは拾ってくれるだろうと思っていた。現実はそう甘くない。

 まあ求人に書かれている採用実績一覧を見ると、身体障害者のことばかりが書かれていて、精神障害の採用実績を持つ企業は少ない。精神障害を採用している企業はIT系が多く、経験者を探しているようだ。

 まあそりゃあそうだろうな、と諦めはつく。社会は、身体に障害はあれど継続的にまともに働ける障害者か、精神に障害はあれどスキルを持ち合わせている障害者を求めているのだ。

 これが”ホンモノ”の弱者王決定戦なのかもしれない。

 

 

 数少ない大学時代の友人に「障害年金ってどんなシステムなん?」と聞かれて、「障害があって就労できない人に月6万〜払われる年金よ」と説明すると、「いいなあ」と言われた。

 至極真っ当な感想だと思った。働かずして1週間分ぐらいの給料に当たる額が振り込まれるのだ。普通に生きていたらありえない話だ。うらやましいと感じて当然である。

 「まあ障害もつらいからねえ」と返すので精一杯だった。

 

 薬さえ飲めばほとんど健常にいられる(と自分では思っている)ので、精神障害者の中でも比較的楽に生きているほうだと思う。薬でどうにかなる程度の生きづらさなのだ。

 だから、障害年金を取得することに一種の後ろめたさのようなものがある。

 今は働き口に困っているだけで、フルタイムで働こうと思えば働ける。おそらく。たった2ヶ月間ではあるができていた。

 

 

 だからこそ、先日までいっしょにいた同居人に「君は社会に向いてないからなあ」と言われたのには驚いた。

 わたしの生きづらさはたぶん自己責任だ。自分で認知を歪ませているのだから、そんなところにまで社会にケアを求めるのは過剰要求だと思っている。

 はたから見てそんなに生きづらそうなのだろうか。確かに生きづらいなあとは思うけれど、薬を飲んでもどうにもならない人に比べれば大したことはないのではないかと思う。

 

 この認識が正しいのか、自分の苦しみを矮小化しているだけなのか、もはや自分では判断がつかない。謙虚でいることと自責的になることの違いがわからない。

 もしただの甘えなのだとしたら、それで障害年金を取得するのはほとんど詐欺ではないか?

 

 

 まあ当分は生活が苦しいだろうから、週末の精神科で主治医に相談するつもりだ。

 少しずつジャブは打っていた。以前、「もし本当に必要ならまた言ってくださいね」と言われたので、たぶんなんとかなる気がしている。

 ただまあ障害年金は申請から取得まで数ヶ月〜半年かかると聞くので、それまで食いつなげるかどうかは微妙だ。どうしたらいいのだろう。

 

 そんな状態で無職でいるわけにもいかないので、今日は夕方からなんばの喫茶店のアルバイトの面接に行く。なんばで喫煙場所に困ったときにしばしば訪れていた喫茶店だ。

 応募の折り返しに来た電話で「うちは全席喫煙可の店ですが大丈夫ですか?」と言われた。そんなものわたしの大好物だ。絶対にここで働きたい。少なくともおしゃれで映えるキラキラカッフェでは働けない。そんなところにいたら気が狂ってしまう。

 

 

 どうにかなればいいなあ。どうにかするしかない。でもどうしたらいいのかわからない。

 エリート志向の母に育てられて、たくさんのものを犠牲にしてきた人生で、こんな修羅の道を歩くことになるだなんて、あまりにも皮肉がすぎる。

 資本主義社会の失敗作。以前、「中学受験は子の人生を狂わせる」というnoteを書いたけれど、あの頃よりももっと狂っている。どこまで狂っていくだろうなあ。もはや逆に楽しくなってきた。

 

note.com

 

 まあいつまでも親のせいにしているわけにはいかない。この人生を生きると決めたのは自分なのだから、自己責任だ。

 

 

 統一教会の件にしろ、京アニ放火の件にしろ、幼少期の家庭環境というものはその後の人生に大きな影響を与える。その親の影響が社会にとっての悪を生み出した。たまたまわたしはあちら側に行かなかっただけで、狂ってしまう気持ちは手に取るほどよくわかる。

 これらを個人の過激思想だと切り捨てるのにはもう限界がある。社会構造の問題だ。親になる可能性をもっているすべての人は、「おかしい人やね」と他人事で済ましている場合ではない。

 誰だって狂う可能性を秘めている。それの程度が違うだけで、たまたま運よく判断がつく状態でいられるだけで、少しでも歯車がずれてしまえば、明日は我が身なのだ。

 

 

 先日、東京藝大の「ヤニカス」展示でツイートが拡散されたときも、引用RTで「ヤク中」「大人しく薬を飲んでろ」という旨のヘイトを受けた。

 社会の認識なんてその程度なのだ。自分のまわりにはメンタルヘルスに問題を抱えた人が多いだけで、蓋を開けてみればものすごくマイノリティで、健常な人にとっては理解の及ばない存在なのだろう。

 

 

 誰もが生きづらさを抱えていると言われる社会で、生きづらさ比べをして、足を引っ張り合っている場合ではない。

 自分がどうにか助かるようになるのにも、社会がどうにか助かりやすくなるのにも、膨大な時間がかかるのだろう。その過渡期にいる人間がいちばん苦しい。

 どうにかなればいいな。どうにかするしかないのだけれど。