おれが苦しいのは、かつて死ななかったおれのせい

 

 

 ここ数日というか、ここ数ヶ月というか、しばらく精神状態が悪すぎる。

 6月初旬から今日に至るまでの記憶がほとんどない。ずっと苦しみ続けているというのは実感としてわかるけれど(なぜなら苦しくない瞬間がないから)、さっきバイト先のカレンダーを見て、ひたすら苦しんでいるだけのこの期間が1ヶ月半以上も続いていたことに初めて気づいた。

 

 中途覚醒で起きて、まず喫茶店で煙草を吸ってインターネットを泳ぐ。帰ってきたら、猛烈に眠いけれど我慢してギターを弾いて歌う。風呂に入る。昼間に寝ると夜に眠れなくなるという強迫観念があるので絶対に昼寝はしたくないのだけれど、睡眠不足でこれまたメンタルヘルスが悪くなってくるので強制終了する。起きて短時間のバイトに行く。帰ってきてインターネットをする。体力が尽きて寝る。

 これを繰り返していたら春が終わって夏が来ていた。怖いよ。

 

 

 何かのために生きているとかそういうのも特にない。いつ死んでも構わないのだけれど、というかこの肉体、この自我、この魂から逃れるために一刻も早く死んでしまいたいのだけれど、遺される人が可哀想なのでとりあえず死なない。

 幼少期の希死念慮は純粋で、さらさらしていて、生への執着がなくて、とても動物的で美しかった。今となっては手垢まみれで、現世への執着でどす黒い。思春期で自我が芽生える以前に自殺しておけばよかったのだよなー。自傷癖は自我が芽生える前からあったし、もうちょっと、こう、なんとかうまくやって、ちゃんと死んでたら、それから10年以上経った今、こうやって苦しむこともなかったのに、何を綺麗に生き延びちゃっているんですか。おれが苦しいのは、かつて死ななかったおれのせいなのね……。

 

 

 わたしの苦しみはたぶん躁鬱を生み出すエネルギー源よりも深い層のところの、情動を突き動かす核のような何かに原因がある。ただの双極性障害では済まされない苦しみ。最近とても自身のボーダー性(境界性人格障害気質)を自覚する出来事が多い。

 自我が覚醒してからしばらく恋愛に依存してきたのだけれど、流石に人間関係をクラッシュしすぎたので、加害者になるのはいい加減もう辞めようと、最近は誰にも依存しないようにと心がけて生きていたら、悲惨なぐらい毎日が無気力で、ただ肉体を維持しているだけになっている。

 まあそれだけで満足というような人種もいるだろうし、そもそもそういうことについて何も考えない人種もいるだろうけれど、わたしはただ肉体を維持するだけの生活をしていると、わたしの脳は勝手に苦しいという感情を生産するシステムを持っているので、自動生成された苦しみを誤魔化す手段がなく、ひたすらに苦しみと向き合い続けるしかない。しかし死のうとはしないので、空洞のような時間だけが流れていく。

 空洞のような時間を過ごすにも、家にいるなら家賃と光熱費、朝から晩までやるなら食費、など生きているだけで罰金のようにお金を取られるので、働かなければならない。かろうじてバイトはしている。社会用の人格を用意する。とても愛嬌のあるドジっ子。あるいは馴れ合わない一匹狼。人格を用意するのも仕事のうち。その人格を1時間演じると、1000円ちょっとをもらえる。煙草を買うとすぐになくなる。

 

 

 はやく大丈夫になりたい。「大丈夫になる」が一体何を意味するのか全くわからんけれども、とりあえず脳が苦しみを自動生成するシステムを廃止したい。カウンセリングなんかに頼るかよ、おれのことはおれが一番わかっとんねん、誰かに指図されてたまるか、と意地を張ってきたけれど、ぼちぼち限界が来たみたいです。次の通院で相談してみようと思う。とはいえ躁鬱そのものはだいぶ寛解してきたので、指定した次の通院日が遠い。それまでに気が狂ったらどうしよう。

 気が狂って道徳を見失った人って、狂いたくて狂ったわけじゃないんだよな。狂った人に本当に必要なのは、形式的な社会的制裁でも、頭ごなしの批判でもなく、その人の狂った原因に寄り添って、もう狂わないでいいように支援することだと思う。

 明日は我が身というか、自分が狂っていないことを証明できる根拠ってとても脆い。少しでも何かのバランスがズレるともう一瞬で狂人になってしまう可能性があるからね。もしかしたら、実は狂っているのに気づいていないだけかもしれないし。

 

 

 今日もなんとか生きました。明日もなんとか生きるのでしょう。明日はどんな色の地獄が待ち受けているのかしら。