高円寺ふしだら商店街(東京旅行記 2日目)

 

 8:00のアラームで飛び起きる。やはり7時間睡眠では寝起きが悪いな。10:00から西早稲田とフォロワーに会う予定があり、東府中からは1時間ほどかかるということで、あわてて準備をする。

 そういえばフォロワーは「起きたら連絡するね」と言っていたなと思い出して、連絡がこないので「起きてる⁉️」と送ったところ、集合時間を大幅に勘違いしていたことが過去のメッセージにより発覚し、そして相手も相手でどうもまだ起きていないようだった。

 

 とりあえず新宿に出て、「珈琲タイムス」でモーニングをいただく。食いしん坊なので写真を撮る前に食べてしまった。

 フォロワーから起床の連絡がきて、ここで落ち合うことになった。とりあえず1日目の日記を書きながら待っていて、そのうちに彼が登場した。

 到着するなり、とってもかわいいお茶の葉をプレゼントしてくれた。静岡のおみやげらしい。

 「あなたの周りの人、特に家族や会社の同僚、取引先などの機嫌に好影響を及ぼす可能性があります。」なんて素敵な文章なんだ。ドシドシ機嫌に好影響を及ぼしていくぞ。もちろん悪影響も及ぼしていく。

 

 彼はアプリを開発していて(どこまで詳しく話していいのかがわからないので内容は伏せる)、そのデザインやイラスト面でちらほら案件をくれている。打ち合わせのつもりがたまに関係ない話もすることがある。それでなかよくなって、会うのは2回目。

 30分ほど話して、たしかつぎの予定は12:00からだったので、このあと会う予定のフォロワーに連絡したら、リスケになったことを教えてくれた。そういえばそうだった。おれっていつもこう……。

 

 というわけで時間が空いたので2軒目に行くことになった。「コーヒーショップクール」という歌舞伎町にある喫茶店で、24時間営業のため東京にくるたびに時間つぶしでお世話になっている。

 「模索舎」というおもしろそうな書店を紹介してくれたのだが開店が13:30で、つぎの予定を13:30からに早めたので、泣く泣く断念。つぎの東京旅行ではぜひ訪れたい。

 

 当初は「珈琲 西武」に入ろうとしたのだが、店前にものすごい行列ができていたうえに、よく見れば「喫煙専用室あり」というシールが貼られていた。喫煙者を檻の中で喫煙させるシステムを導入している飲食店は大阪にもしばしばあるが、東京はその比ではない。検索で喫煙可能店と出てきたからといって油断ならない。クソッタレ〜!

 他愛もない雑談をして、そろそろお開きとなった。新宿駅の山手線改札までお見送りしてもらう。

 

 そのあいだに、性愛にかんする相談を受けた。わたしはポリアモリーを公言していて、オープンリレーションシップのパートナーがいるおかげですこやかでいられているが、やはりいまの社会規範が前提にあるかぎり、圧倒的多数はパートナーがほかの異性に浮つくことを許容するのは難しいようだ。わたしは自分をスタンダードだと思いながら生きているので、自分たちのありかたがめずらしいパートナーシップのかたちだという自負はまったくないのだが、たまに他人と話して現行の性規範に引き戻されるたびに驚くし、いまのパートナーとオープンにやれているのはとても恵まれていることなのだなと実感する。

 わたしたちは性愛をやるうえで、自分が自分であるための大切な部分をすべて賭けがちなので、たとえばセックスを拒否されたとなると、人格までまるごと否定された気持ちになったりする。数多の出会いの中からお互いに惹かれあって、ともに時間を過ごす選択をして、そこで相性をすり合わせた先でまた試練があるなんて、ものすごい話だ。

 

 あらゆる他者との関係性はすべてが正解でありすべてがまちがいで、そこに優劣はないはずだから、わたしが自身の性愛への価値観を述べたところでそこになんらかの価値が生まれるわけではないということをご留意いただきたいのだが、少なくともわたしは愛は相手を不自由にするものであってはならないと思っている。他者との愛のあいだに発生する不自由は、みずからが相手のためを思って課した制約などであるべきで、それは自発的でなければならないと思う。おなじ"不自由"であっても、不自由に"なる"ことは本人の主体的な選択だが、不自由に"させられる"ことは他者による抑圧だ。

 わたしはそういうところで、パートナーにはわたし以外のほかの人間ともさまざまな関係性をむすぶ自由があると考えているから、この関係性への執着を口実に相手のすこやかな暮らしを制限したくない。し、わたしもそれを制限されたくない。最後にここに帰ってきてくれればいいなという信用をすることが相手に対する誠実さだと思う。

 もちろん離れてしまうことになったらかなしい。わたしたちはオープンリレーションシップにしているので、きのうどこで誰と、という話をよくする(むしろ隠れてやられたほうがしんどい)。そのたびにとてつもなく嫉妬する。わたしに割けるはずのリソースがそこに存在するのに、どうしてほかの女にそれをするのか、と非常にいらいらする。でも彼には豊かにワハハと暮らしてほしいと願う気持ちも同じくらいある。最後までわたしが隣にいられればいちばん幸せだと思うが、パートナーが離れたいと言ったときは離れようとも思っている。とってもかなしいけど、相手の幸せになる権利を奪ってまで自分の幸せを優先することは、結局わたしが幼少期に親にやられてきたことと同じだ。

 他人と同化しようとするその境界のあいまいさは、もちろんそれが関係性のエッセンスになりうることもあるが、だいたいの場合は破滅への糸口だから、わたしはここで踏みとどまらないといけない。これらを再生産してはいけない。なんとなくそういう使命感というか強迫観念がある。

 

 つぎは北千住に向かう。美大浪人時代の同級生と数年ぶりに会う約束をしていた。ひさびさに会って、よい意味で雰囲気ががらりと変わっていて、まるで別人のようで驚いた。最後に会ったのが大学生時代なので、そりゃあ社会に放り出されたらむしろそのままのほうが怖いよな。

 北千住は飲み屋街ということをはじめて知った。安くてうまくて煙草が吸える居酒屋がたくさんあってうれしい。そのぶん喫茶店はまったくない。なんとなく焼き鳥屋さんに入った。

 彼女もざっくり言うと美術関係の仕事をしている。話の流れで「デカ愛ちゃんは美術が好き?」と聞かれて、「だいすき〜」と即答した。大学生のころは美術がブルジョワに独占されていることが憎くてたまらず、美術までもに嫌気が差していたが、わたしは単にブルジョワが嫌いなだけで美術を嫌いになったわけではなかった。大学の卒業間際にそれに気づいて、なんだかんだカスの大学ではあったが、芸術大学という学びの場そのものには行ってよかったなと思ったのだった。

 彼女に同じ質問を聞き返したら、「嫌いになりきれないところが自分の弱いところだなと思う」というようなことを言っていた(気がする)。これはめちゃくちゃわかるなあと思った。さんざん美術に苦しめられてきたのに、生きていてよかったと思える瞬間をくれるのもまた美術なのだ。嫌いになりきれない。とてもいいことばだと思う。きっと距離感はそれぐらいがちょうどいい。好きとか嫌いとか、ふたつにわけることで見えなくなるものもきっとある。

 

 あれこれと話して解散した。高円寺に向かう。だいすきなお友達とサイゼリヤで待ち合わせて、どうせ東京にいるなら東京にしかないものを食べればいいのに、ポップコーンシュリンプとティラミスを注文した。さっきの焼き鳥屋で肉類を腹8分目ぐらいまでいただいたので、のこりの2分に炭水化物を詰め込んだら、ちょっとくるしくなった。食いしん坊だからしかたない。

 半年ぶりくらいにようやく会えたお友達は、「ほんとうに毎日がんばっててすごい」「働いて生活もしてえらすぎる」と繰り返し言ってくれた。褒めてもらって悪い気はしない。おれって毎日がんばっててえらいのかも……。おまえも毎日がんばっててえらいぞ!

 

 もうひとりそのお友達のお友達が来てくれることになって、サイゼリヤを出て合流した。大将という高円寺では超有名らしい居酒屋に運よく空席があったので入る。

 お友達のお友達は、わたしが京都にいた頃にときどき顔を出していた界隈のイベントで数回会ったことがあるフォロワーで、彼女はしばしばそこで手料理をふるまってくれていたことがある。ふたりともわたしが京都にいた頃につながった縁なので、とてもなつかしい気持ちになった。

 京都を離れてまだ2年も経っていないが、なんだかずいぶん昔のことのように感じる。その頃につるんでいた人たちはみんな進学や就職で全国各地に散り散りになり、鴨川に行きさえすれば必ず誰かには会えたのに、いまはわざわざこうしてスケジュールを組まないと会えない。大人になるって悲しいなあと思う。

 

 社会の話をしたり、セクシャリティの話をした。やっぱりこういう大きな枠組みについて話すのはたのしい。おなじ大きな枠組みの中に生かされている者同士で連帯すると気持ちがいい。こういう気休めでもないと、もう自分の足だけでは立っていられないのだ。

 わたしのつぎの予定まで30分ほどあったので、高円寺駅周辺を散策することになった。駅前の商店街は「高円寺純情商店街」というようで、どうも地元が輩出した直木賞作家の作品からとったらしい。お友達と「高円寺不純商店街」「高円寺ふしだら商店街」などとくだらない大喜利をかわしながら歩いていると、気になる古着屋さんがあったので入った。ピンクハウスのTシャツが3000円で売られていた。

 ピンクハウスは、わたしが小さい頃に母親がよくわたしに着せてくれていたお洋服のブランドだ。あとになって知ったのだが、親子のペアルックをよく買って着ていたらしい。母親もやっぱりひどいだけの人ではなかったのだなあと思う。

 このあと会う友人との連絡がついたので解散することにした。高円寺駅から徒歩1分というすごい立地に住んでいるようで、いま起きたからちょっと待ってなと言われた。

 

 

 この友人は4~5年前にTinderで知り合った男友達で、京都にいた頃はたまに会っていたのだが、彼は就職を機に東京に移り住んだ。わたしが東京に行ったり、彼が京都に帰省したりのタイミングで会えそうにはなっていたのだが、なぜか毎回頓挫しており(わたしが東京行きの飛行機を逃した回などもある)、かなりひさびさの再開だった。

 彼は美術作品のコレクションが趣味で、部屋にはおもにポップアートに分類される絵画が7~8点並んでいた。20代で美術作品に数十万円をかけている人はとても希少だ。その中にはずいぶん昔にわたしが展示のためにキャンバスに出力したイラストが飾られていて、そういえば展示が終わったからいらないからとあげたのだった。完全に忘れていた。

 

 「高円寺に住むアートな男」というと、なんとなく想像できる人物像があるが、彼はそこから大きくかけ離れている。なんせとにかく加虐嗜好がすごいのだ。相手の生殺与奪を握ることでしか興奮できないという。たとえば首絞めなんかもプレイとして一定数の支持があるが、血流がとまって頭がぼーっとする程度のものにはまったく興奮せず、相手の息の根が止まりかけてむせ返ってゲボを吐くところまでいかないといけないらしい。そうなると後始末が大変そうだなあと思う。

 そしてさらに厄介なのは、はじめからマゾヒストでこられてもさして興味はないというところだ。だからSMバーなんかに行っても意味はないらしい。ふつうの人間を破壊したいのであって、破壊されることをはじめから望む人間はどうでもいいのだという。自分が破壊していく過程で、相手が破壊されることを望んでいくようになってほしいそうなのだが、そうなると人権侵害として訴訟沙汰になるリスクも高まるわけで、そこに彼は頭を悩ませている。非常に生きづらそうだ。

 彼にはいまのところ前科はないし、そのあたりの良識はあるので、いまのところ社会ではふつうの人間を装って生きることができているようだし、きっと引くべきところではきちんと引くことができるだろうから、まあなんとか無事にやっていけることを願っている。

 

 そんな彼の趣味が美術作品のコレクションであるというギャップが非常におもしろい。「おれはギャラリーに行くときだけ人間に戻れる」と言っていた。やはり美術には人間を人間たらしめる何かがある。どうかそのバランスをうまくとって、そのまま無事になにごともなく生きてほしい。

 終電がちかづいてきたので、よゆうをもって出発する。なんせ東府中まで帰るというのは一大イベントなのだ。乗り過ごしたら大変だ。

 

 なんとか宿に帰ってきて、きょうは1日中ほとんどネットサーフィンをしていなかったので、こころの飢えを回収するようにインターネットに張りついた。あしたも朝が早いのに。なんやかんや2:30くらいに寝た。きっとあしたも寝不足なんだろうな……。