死ぬまで大人になれないんだろう

 

 暑くなってきたなあ。とっても暑い。でもわたしは夏にしか元気になれないから、夏を愛している。べつに特段かき氷が好きとか海に行きたいとかバーベキューをしたいとか、そういう夏っぽいイベントも斜に構えず楽しめるタイプの人間だけれど(というか時間をかけて自分のメンタリティを魔改造した)、それらとはまったく関係ないところで、夏は太陽から直接エネルギーを注入されているかんじがして、じっとしていられない。クーラーでガンガンに冷やした部屋で、ブランケットにくるまってうだうだすることも嫌いではないけれど、それも1~2時間で飽きる。

 

 毎年ちゃんとしっかり鬱気味になる冬のわたしとは大違いで、夏は元気いっぱいで身体もシャキシャキ動いて、そういえば双極性障害統合失調症は、人格の統合に失敗している状態ではないかという説を見たことを思い出す。まさに言い得て妙だなあ。

 

 

 今日は精神科の通院のために京都にきている。精神科のあとはフォロワーと喫茶店でおしゃべりをして、そのあとは京大西部講堂のイベントにライブを観て、このあとは元勤務先のコンカフェでなかよくなった"好き女(すきめ)"と飲みに行く予定だ。

 

 フォロワーに会うのが好きというか、なるべくたくさんの他者に向き合うようにしている。フォロワーにもいろいろな人がいるので、まあ正直あまり得意ではないタイプの人に出会うこともあるけれど、この世界中のすべての人類に対して同じ気持ちをもつことはほとんど不可能だし、得意ではなくても愛することはできると思う。類は友を呼ぶというように、気がゆるむと自分と似たような人間とばかりつるむようになるし、そうなってしまうと人間はどんどん狂っていく気がするので、なんとしてでも"まとも"でいたいわたしは、どんな生き方でも等しく価値を見出すように努めていたほうがいい。いずれ狂うことが決まっているにしても、速度はゆるめられるはずだから。

 

 

 バイトではあるものの会社で勤務するようになって、驚くほどに日々が同じことの繰り返しだ。7:30に起きて、9:15には出社して、12:30になれば毎日同じ喫茶店でランチを食べて、18:00に退勤して、0:00に就寝。これを5回繰り返していると1週間が終わる。

 あまりにもつまらなさすぎて、はじめの1ヶ月は退勤後に毎日どこかに出かけたり、誰かに会ったりしていたけれど、双極性障害が悪化していくかんじもするし、ただでさえ低収入なのにお金も減っていく一方なので、最近はどこにも寄り道せずに帰宅して、自炊をするようにしている。

 せめてもの日々の彩りとして、毎日ちがうものを作るようにしているけれど、それでもやはりルーティンの中にいて、同じ毎日を繰り返していることには変わらない。

 

 弊社はオフィスカジュアルが規定なので、黒とか白とかグレーとかの無難な色の、無難なシルエットの洋服を身にまとっているけれど、これでは歩く資本主義ではないか。もはや資本主義はすべての長所を出し切って、ボロしか出ないフェーズに突入していて、沈みゆく泥船に乗せられているような気分になるし、ほんとうにこんな格好をしたくない。肉体がオフィスカジュアルをまとうことで、精神までもが資本主義化してしまう。どんどん去勢されていく。

 社会に異議申し立てをしたくとも、働いて食って寝てで精一杯で、そこにリソースを割けるほどの余裕がない。きっとこの国に生きる人の大多数がそんな状態にあって、それゆえに人々が政治から離れていって、権力をふりかざしたい国家にとって非常に都合のいい社会になってゆき、それがまた人々の政治離れを生んでいて、ほんとうにどうしようもないなあ、この負のループは。

 

 

 それでもわたしは生きていくほかはない。まだまだ死ぬつもりはないので、できることをやっていくしかないんだよなあ。

 たとえどれだけツイッターで「お気持ち(笑)」と揶揄されようとも、何も考えずにただ反射的に他人を腐したいノンポリ冷笑家よりはよっぽどマシだし、わたしがツイッターでさまざまな問題提起をすることで、すこしでも誰かの問題意識を駆り立てることができれば、それはそれは素晴らしいことだ。まあこれらはただの思考多動ゆえの放言なので、わざわざ価値を与えるようなものでもないけれど、副次的に何らかの役割を担うようになるならば、何のためにもならないよりはよっぽどいいんじゃないかな。という気休めの自己弁護。

 

 

 ちょうどいまは西部講堂のイベントにきていて、講堂の外の階段に座って、音漏れを聴きながらこの文章を書いている。ライブハウスは好きだけど、「こう楽しむことが正解」みたいな暗黙の了解って、音楽の本質からはずれているように思う。音楽ってたぶん、たたいたりこすったりすればさまざまな音色がなることに気づいた人たちが、コミュニティで複数の他者とともに過ごす時間を彩るためにはじめたのだろうし(詳しくは知らないけれど)、べつに音楽の聴き方なんてほんらいは自由だったんだろうな。

 サビでは拳をつきあげなきゃいけないとか、コールアンドレスポンスで叫ばなきゃいけないとか、というかふつうにその場に座り込むのがご法度とか、ほんとうにばかばかしいと思う。そりゃあ演者としてはフロアが湧いてくれるほうがうれしいのだろうし、リスペクトにおけるマナーみたいなものが生まれるのもわかるけれど、鑑賞におけるマナーが強制力をもつことによって音楽の本質からどんどんずれていくというのは、あんまりしっくりこない。

 べつに踊りながら聴いたって座りながら聴いたって、それぞれがたのしければいいじゃんね。生の楽器の音をBGMにしながら文章を書くのって、すごくぜいたくな体験だし、さすがに構内で座るのは上記のようにマナー違反とされるから、演者にもほかの鑑賞者にも見えないところに座り込んでいるわけだけれど、こういうところで同調圧力に負ける自分って、弱いなあと思う。他者にとって迷惑になることを回避することと、同調圧力に屈するということは、ほとんど同義なんだろうな。これらを使い分けられるようになりたい。

 

 共同体を形成するうえで、さまざまな構成員にとっての快/不快の共通項が一般化されてマナーとなり、それが条例や法律になっていくことは、集団生活でうまく生きていく人間にとっては必然なんだろうけれど、さすがに昨今の社会はなんでもかんでも法規制をされすぎだろう。人間のために法があるのではなく、法のために人間があるというような構図ができあがっている。そうして人々は法を内面化して画一的になっていく。なんというディストピア。もう終わりだよ。

 それでもまあこの共同体で生きていくことを選択するならば、ある程度はそれにしたがわないといけないんだな。自身の自由は他者の自由を侵害しない範囲で認められるものなので……。

 自分らしく生きることと、社会に適応して生きていくことのバランスを取るって、すごく難しいな。生きれば生きるほどよくわからなくなっていく。たぶんわたしって死ぬまで大人になれないんだろうね。きっとずっと社会に対して反抗期のままなんだと思う。

 

 

 雨が降ってきた。西部講堂は駅からやや距離があるし、傘もないしで帰れなくなった。どうしようかな。困ったねえ。

 最近はこんな感じで生きている。社会に去勢されたくないなあ。