ようやく安定した職に就いて、生活もメンタルヘルスもかなりバランスを取りやすい環境を手に入れたけど、それでも死にたい気持ちはなくならない。どれだけ充実した毎日を送っていても、頭の片隅にはつねに希死念慮がこびりついていて、どんな選択肢を提示されても「自殺かそれ以外か」に見える。これはきっとわたしが死を迎えるまで変わらずにつづくのだろう。
人間は不可逆だから、一度おぼえてしまったものは知らなかった状態には絶対に戻れない。おそらく希死念慮との付き合い方については死ぬまで悩まされる。わたしはもうそういう宿命を背負っている。わたしの身の回りに起きたことはきっとすべて必然で(これはけっして陰謀論などではなく、ただそこにいた全員がそれぞれの正義にしたがって行動しただけ)、誰が悪いだとかそういう話ではないのだと思う。
もちろん誰かを責めることでおのれのこころを守れるフェーズは誰しもが通る道だし、べつにそれ自体が悪いというわけではないんだけど、ほんとうに幸せを獲得したいと望んでいるなら、いつかはその他責思考とは決別しなければならない。そしてそれなりの行動をとっていくことが必要なんだろう。いつまでも誰かを責めていたって、その人はわたしを救ってくれるわけじゃないんだから。
わたしはいつだって"ふつう"に憧れていて、たとえば小学生のころはお母さんに髪を結ってもらえる幼馴染が、中学生のころはテストで100点を取れなくても叱られないクラスメートが、高校生のころは部活に打ち込むことを家族に応援してもらっている親友が、うらやましくてたまらなかった。
ずっと"ふつう"になりたかったのに、気づいたら変な向こう岸にひとりでぽつんと立っていた。その変な岸にたどりついた人たちでさみしさを埋め合わせようとして、だけど無条件に愛されたい気持ちが大きすぎるがあまりに、他者への愛のようにラッピングしただけの自己愛をふりまいて、たくさんの人たちを傷つけてきた。
こんなことをしていたって、幸せにはなれない。べつに幸せになることは人間の義務ではないし、どんな人間が生きていたって命の価値は同等なのだけど、それでもこの人生の前半がこんなにもくるしみにあふれていたのだから、そろそろ巻き返してもらわないと困る。この人生のエンドロールには愉快な音楽が鳴りひびいていてほしい。
死ぬとか、生きるとか、幸せとか、命の価値とか、そういうことをまったく考えないで済む人生がよかったとしばしば思う。「たらればって意味ない(笑)」と笑われることは承知だけど、ifルートに夢をみることぐらいはゆるしてほしい。ifルートは実現不可能だからこそ美しくて、その美しさに定期的に触れようとしないと、こんな社会では即座に去勢されてしまう。社会によって去勢されるということは、自分だけが定義できるオリジナルの幸せを捨てるということだ。
わたしは幸せになることを諦めたくないし、絶対に社会ごときに去勢されてたまるかという強い意志がある。わたしをいちばん救ってあげられるのは、わたしのいちばん近いところにいるわたしだから。
今日もやっぱりちょっと死にたかった。メンタルヘルスの調子がよいほうであっても、希死念慮がゼロになるわけではない。1から100の間でゲージ内を行ったり来たりをするだけだ。
だけど生きていくほかはない。わたしがわたしを抱えて生きていくというだけでそれはもう大きな精神的負荷で、ひとりで抱えるには重すぎてくじけそうになることもたくさんあるけど、わたしはわたしのためにがんばるんだ。絶対に幸せになって、過去のわたしに「がんばって生きのびてくれてありがとう」って言ってあげたいから。
そのころにはきっと、もっとうまく自分のことを自分で愛してあげられていると思う。